「彼等の昭和」

「 デルスー・ウザーラ」の翻訳を行った長谷川四郎さんのご兄弟については、
川崎賢子さんが「彼等の昭和」(白水社 94年)で取り上げています。
 長男 長谷川海太郎 (林不忘ほか ) 次男 長谷川りん二郎 (画家)
 三男 長谷川しゅん          四男 長谷川四郎 ( 文学者 )
という4兄弟( このほかに妹さんもいるのですが)と父親についての
評伝です。
 各人について最低50ページほどがさかれていますので、これはそうとうに
調べを行った作業であります。もちろん、小生が眼にしてたり、確保している
もので著者の川崎賢子さんがチェックしていないものはないと思えますので、
本を書くということは、このくらいまでも調べなくてはいけないのかと思いつつ、
参考にさせてもらっています。
 「本の話」12月号(文芸春秋社)にある小林信彦さんの文章でふれていた
1939年に黒澤明が、堀川弘通さんから手渡された「デルスー・ウザーラ」の
原作ということに関して、川崎さんの本には、次のようにあります。
「 アルセーニエフの『デルスウ・ウザーラーーアルセーニエフ氏のウスリイ紀行』
は『青年衛兵』1936年第3版を底本に、1943年、新京の満州事情案内所
から翻訳刊行された。アルセーニエフのウスリー紀行は三部作をなし、『デルスウ・
ウザーラ』はその第二部、第三部は『シホテ・アリン踏査記』は、1938年に
満鉄の社内刊行物として翻訳されている。」
( 満州事情案内所からでたのは1941年が正しいようです。)

 これを見ると、堀川弘通さんが手にしたのは、第三部である「シホテ・アリン
踏査記」であるのでしょうね。
 河出書房から75年にでた「デルスー・ウザーラ」(長谷川四郎訳)は、黒澤明
映画化したことによって出版されたものですが、これのあとがきに長谷川四郎さんは、
この本のなりたちについて書いています。 
「 本書は、1902年と、1906年と、1907年三つの『デルスー・ウザーラ』
から成っているが、最初に翻訳ができたのは三番目のそれ、つまり1907年の
『デルスー・ウザーラ』だった。1941年、当時の新京にあった満州事情案内所から
発売されたものである。共訳者として私の兄の長谷川しゅんが名をつらねているが、
これはバイコフの『偉大なる王』の訳者として有名だった兄が、すこしでもこの本の
売れ行きがのびるようにと、名前をかして助けてくれたからである。」  
 長谷川四郎さんの息子さんが、「デルスー・ウザーラ」の翻訳権をめぐって兄弟間に
すこし不協和があったように記しているのは、このような事情によるものでしょう。
 
 長谷川しゅんさんは、子供のころからロシア語の個人教授を受け、29年に大阪外語
ロシア語学科で、ニコライ・ネフスキーの教えを受けるのですが、卒業後は満州にわた
満州映画協会に職をえておりました。
 戦後は、貨物船のロシア語通訳をして暮らしていたということです。
しゅんさんは、「かっては林不忘の弟と呼ばれ、戦後は長谷川四郎の兄とよばれること
をさびしんでいたという。」ことです。
長谷川家の妹さんの話として、長谷川家では芸術家として評価を受けなくては、人間と
しての価値がないような雰囲気があったということを聞いたことがありました。
寡作でもひげのない猫の絵で、最近とみに有名になった画家のりん二郎さんとくらべる
と、昭和16年ころには、翻訳家としてすこし注目された、しゅんさんの戦後は寂し
すぎるのかもしれません。