東京堂で買った本 3

 長谷川濬さんの「木靴をはいて」の解説で、大島幹雄さんは長谷川濬さんのことを次の
ようにいっています。
「 長谷川兄弟のなかで、もっとも知られていない長谷川濬こそ、この街が醸しだして
いた精神を自分の糧として、生涯コスモポリタンとして生きた男だった。文学的には無名
のままに終り、満州から帰って来てからは、定職にもつかず、苦しい生活をおくってい
るのだが、兄弟のなかでは、誰よりも自由に、誰よりも好き勝手に、生きていた。
もしかしたら、彼こそ、函館精神を代表する作家だったといえるかもしれない。」
 長谷川兄弟のなかでは、権力者の近いところにいた人ということで、長谷川濬さんは
他の三人と違っているかもしれません。
 長男 長谷川海太郎林不忘ほか)さんは、早くして米国に渡り、日本に戻ってからは
流行作家として絶頂期に急死しています。
 次男 長谷川潾二郎さんは画家ですが、まったく群れることをしない人ですから、この
方に権力志向を感じることはありません。
 四男 長谷川四郎さんは、満州にわたって満鉄の社員となりますが、これなどは、
どうみても長谷川濬さんと関係がありそうです。
 長谷川四郎さんが、満州時代に最初に刊行した翻訳「デルスー・ウザーラ」は、
長谷川濬さんとの共訳ということででています。当時の四郎さんは、まったくの無名で
ありましたが、長谷川濬さんは、バイコフの「偉大なる王」の翻訳者として有名な存在で
ありました。
 長谷川濬さんは、満州国の外交部から、満州映画協会に転じて、ここでは管理職として
業務を行って、映画協会の理事長である「甘粕正彦」の側近として、甘粕が自殺するとき
に、その現場に居合わせていたとのことです。
 満州国さえなくならなければ、新興国の文化指導者として影響を残したかもしれません。
敗戦時に長谷川濬さんは39歳で、これ以降はロシア語を武器に世の中をわたっていくの
ですが、ついに満州国時代の輝きを超えることはできなかったようです。
 再び、大島幹雄さんの解説からの引用です。
「 神の最初の成功となったドン・コサック合唱団招聘(1956年)のそもそものきっか
けをつくったのは、長谷川濬だった。神彰の華麗な生涯を追いながら、神のもとを
去っていった男のことが、ずっと気になっていた。この公演の成功により、華やかな
表舞台で次々に奇跡を生みだした神の成功と見事なコントラストを描くように、長谷川
は、ずっと不遇をかこつことになる。光と影というだけではすまない、あまりにも酷な
運命が長谷川の前に待ち構えていた。神と袂を分かったあとは、自分の病気、生業に
つけない生活苦と闘いながら、サハリン航路の通訳をしながら生計を得ていた。・・・
長谷川濬のことが気になったのは、たぶんあまりにも見事に負け続けていたこと、
そして終生ロシアにこだわっていたこと、なによりも生涯ずっと書き続けていたからでは
ないかと思う。」