加藤一雄教 8

 昨日に引き続いて杉本秀太郎さんの「西国記 富士正晴加藤一雄」(ちくま
 87年10月号 )から話題をいただきです。
 杉本さんは、富士正晴さんのところにいったときに、富士さんから「雑誌から切り
取ってとじ合わせたものに富士さん手製の表紙が付き、太い字で墨黒々と『加藤一雄
・無名の南画家』としるした題箋がはりつけられていた。」ものを手渡され、
「これは、お前が読んだら、きっとおもろいわ。加藤一雄いうたらな、へいちゃらで
こんなもの書きよるね。これだけ冴えた小説かけるやつ、ほかにおらへんで。」と
いわれるのでした。

 これを借りて帰って、読んでからの杉本さんの感想です。
「 加藤一雄のあたまのなかには、ひそかな手本としてウオルター・ペイターの小説が
宿っていたのではないか、例えば『家のなかの子』のような。じつのところ、私は
いまもそう思っている。はじめから狙いは高いところにあり、イカルスについていけ
ない読者がころがりおちて地面にたたきつけられ、あるいは海中にほうり出されても、
そんなことは作者の知ったことではなかった。高いところは空気が希薄になる。一般の
知識層にも、経験の部位にも、近代百年のうちに希薄となった南画というものが、この
小説の背景であり、また前景であるから、狙いどころが高いというのである
 しかし、この小説は、小説というものが一般に狙っているところよりもずっと低い
ところを狙っているともいえる。私小説でさえ、こんな低いところまで降りていない。
・・・結果として、どこまでが本当で、どこからが嘘なのか、見極めようのないもの、
ロマネスクとでもいうより仕方のないものができあがっている。別の言い方をすれば、
魂の物語である・・辛辣でしかも甘美な。」

 ペイターの小説を引き合いにだすくらいから、話はややこしくなってきます。
「狙いが高いところにあるとも、低いとこにあるともいえるのですが、ロマネスクと
いうより仕方のないもので、魂の物語」だそうです。
 どのように読んでくれてもけっこうと作者は思っているようと引き継いで、杉本
さんならではの言葉です。
「 困ったことに、いや、うれしいことに『無名の南画家』には京都という町の紛れも
ない刻印が染み通っている。任意の場所と挿しかえるわけには行かぬ京都の地理と
気候風土と人文が、このロマネスクを支えている。」

 この「無名の南画家」を、小生は居眠りしながら、ねころんで読んだのでありますが、
まるで読めていないことでありまして、どちらかというとすぐに読める物であります
から、この評をあたまにいれて、再度読むことにいたしましょう。