京の祇園祭

 神社のお祭りというとカレンダーには関係なしで、何月何日ときまって
いるのですが、大きなイベントになっているようなお祭りは、それにあわせて
ほかのまちで働いている人たちも帰省して、大盛り上がりをみせるのですが、
それ以外の普通のまちのふつうの神社の祭りは、お手伝いの確保に四苦八苦して
いまして、週末や休日に祭りがあたらなくては、さっぱり盛り上がらないことに
なっているようです。
 小生が小学校の低学年のころ(もう50年もむかしになります。)は、神社の
お祭りというのは、小学校がお休みになったりしました。どういうやりくりで
お休みとなっていたものかはわかりませんが、学校が休みになったら祭りに
いくしかないではないかです。
 博多とか岸和田などは、お祭りにあわせて全国から帰省する人たちがいる
ように聞こえてきますが、京都町衆の「祇園祭」はどうでありましょう。
 京都の中心部の町衆が支えている「祇園祭」だって、中心部のドーナツ化
現象で住んでいるひとが少なくなっているにちがいありません。お祭りを
維持するためには、相当の費用がかかりますので、中心部に住むということは、
こうした費用を負担できる人しかできないことになるのでしょう。
 小生は、学生時代の4年間を京都ですごしたのでありますが、暑さが苦手で
あったため、7月の声を聞いて、学校が休みモードにはいるやいなやで、
涼しい故郷に帰省をしておりまして、7月10日というと京都を離れており
ました。したがって、いまとなってはせっかく4年も住んでいたというのに、
一度も祇園祭を見物したことがないということになってしまいました。
 今は、町衆の代表的な存在として有名になっている「杉本秀太郎」さんの
ことも、当時は京都学派のフランス文学人脈のお一人としか思っておりません
でした。
 本日は、杉本秀太郎さんの「花ごよみ」講談社学術文庫からの引用です。

「   鐘つきの窓に開くや時計花  花晩   

 京都の夏祭、八坂神社の祇園祭の月鉾および太子山には、破風あるいは欄縁の
金具に、みごとな時計草の彫金がある。いずれも江戸後期、18世紀末の作品。
 ことに、月鉾の時計草には、彫金師の技芸の冴えがいちじるしい。時計草を
彫った破風の真下、天井のけら羽板には円山応挙天明四年に描いた棉の花の
美しい写生図がある。綿の花と時計草が互いに引き立てあっているおもしろさ。」
 
 こういう文章をみると、じっくりと一台ごとの山車を見物してみたいと感じる
のでありました。