富士さんとわたし9

 本日の「富士さんとわたし」は、「贋・久坂葉子伝」をめぐってです。
筑摩書房から最初にでたときに、それを26才の山田稔さんが京都新聞に書評を
のせたのだそうです。山田稔さんは、大学院を卒業したばかりの時で、商業紙から
はじめての依頼原稿であったとのことです。
 久坂伝が発表されたのは、久坂さんがなくなって3年ほどたってからのことですが、
生前の久坂さんと山田稔さん面識はないとのことです。
久坂さんの自殺は、いろいろな原因があるのでしょうが、娘の自殺というのが久坂の
父には受け入れがたいものであったようで、そのことが久坂の作品の出版をとめて
しまったとあります。
 富士正晴さんの「贋・海賊の歌」には、それについての文章があります。(初出は
VIKING」57年11月)

「 久坂葉子選集を出してしまっておれば何もわたしは『贋・久坂葉子伝』など
書かないで済んだのだ。
 もし久坂葉子の父の川崎芳熊氏が久坂の『幾度目かの最期』はあれは芸術じゃない
など判定を下してそれを出版することを拒む、ということをせず、自殺までして自己を
主張した憐れな娘に父親らしい寛容を示してくれさえすえば、久坂葉子選集はとっくに
出て、川崎氏のこころはかえって安まっていただろうと思う。
 明らかにされれば、変な興味は消え失せてしまう。それが明らかにされなかったために、
久坂葉子の姿はすっきりとした形にならず、いまだにいぶった形であちらこちらにも
さまよっている。久坂葉子の主張したかったことが何であれ、そのもっとも魂をそそぎ
こんだ「幾度目かの最期」をこれは芸術ではないという理由で封鎖する人間的な権利は
川崎氏には無いはずだろ思われるのに、法律的にいえば版権は川崎氏にあって、川崎氏は
今までのところそれを楯にとっておられるように見える。久坂の自殺はまことに皮肉な
結果を引き起こした。
 川崎氏があのような死に方をしあ久坂葉子を許すことができないとしても、自分の
芸術的判断を絶対とし、版権を自分の手中にあるのを力として、久坂葉子の作品の
出版を制限しているのは、川崎氏は決して意識されないだろうし、またたいへん酷い
見方になるが一種死屍に鞭打つやりかたではないか。」

 どの時点で、「幾度目かの最期」の刊行が許可されるようになったのかは、知りませんが、
それが父親の生前のことであったのかどうかは気になるところであります。
最近は、久坂葉子研究会が結成され、講談社文芸文庫にも作品集がおさまっているので
ありますが、こうなっていくことは、富士正晴さんにとっても想定以上の事態である
のかもしれません。