「主のない家」2

 瀧口修造さんが亡くなったあとに、あるつてがあって、瀧口夫人は久野収さんが
在外研究(パリにいっていた。)で留守にしていたお宅を借りていたと、飯島耕一
「冬の幻」という作品にありました。
 たいていのことは、ネットで検索をかけるとなにかてがかりが入手できるように
思っていましたが、久野収瀧口修造で検索をかけても、これではなにもヒットしない
のでありました。
 そういえば、飯島耕一の代表的な詩作品には「ゴヤのファーストネームは」というの
がありまして、これには「生きるということはゴヤのファーストネームを知りたいと
思うことだ。」とあるのでした。ほとんどゴシップでしかないのかもしれないのですが、
久野収瀧口修造をつなぐリングを知りたいと思って、あれこれと資料にあたるのは、
飯島耕一にならっていえば「生きるということ」であるのかもしれません。
 「冬の幻」には、次のようにあります。
「 久野収というアクチュアリティを重んじる哲学者の家に、シュルレアリスト
 遺した『物』が収められていることにはある感じがあった。戦中の昭和17年に、
 Tさんはひそかに保釈中の戸坂潤と会って、認識論大系の計画をうち明けられ、
 その中で近代芸術の部門を受け持ってくれと依頼されていたが、久野収と戸坂潤の
 間にも何かかかわりはあったのではないかと、そのダンボールの箱の山を見ながら
 藤堂は思った。その認識論大系は獄死同然の戸坂潤の死によって無になっていたが。」

 久野収さんの奥様をともなってパリへといった時の記録は朝日選書から「日本遠近」と
いうタイトルで一冊にまとまっています。これを開くと、どこかに東京の自宅のことに
ついて記しているところがあるかもしれぬと思っているのですが、いまは小生の自宅の
どこにあるのかあとでさがしてみましょう。
 瀧口修造さんについては、そのむかしに「本の手帖」昭森社からでていた雑誌が
大特集をしていたほか、「現代詩手帖」でも特集を組んでいたのを購入した記憶が
残っています。瀧口さんは、70歳をこえてから精神を病んで、医師の斉藤宗吉(北杜夫
さんに受診したとあったように思います。ずいぶんな大特集であるのに、記憶して
いるのが、これしかないというのがなさけないことです。