植草甚一 ジャズ・エッセイ 2

 河出文庫についている岩浪洋三さんの解説によりますと、植草甚一さんは
49歳になってから突然ジャズにとりつかれたのだそうです。「とりつかれた
というよりも、ジャズに狂ったといったほうがいい。ほかの言葉ではいいあら
わせないほどの熱狂ぶりだった。」
 時代としては、ハードバップというスタイルのジャズが生まれたころのこと
ですが、この時代には、まだロックンロールがいまほどメジャーにはなって
いなかったのであります。
「 日本では、50年代から60年代にかけては、若い文学者や詩人、写真家、
美術関係者たちがモダンジャズにいっせいに興味をもちはじめた時期でもあった。
河野典生氏は新宿のジャズ喫茶『ヨット』の片隅で原稿を書いていたし、倉橋
由美子さんは吉祥寺の『ファンキー』に通いながら『暗い旅』を書いた。
坂上弘氏はよく深夜に新宿のジャズ喫茶にあらわれあt。
 大倉舜二氏や田付義浩氏などもジャズの写真をとっていた。
 61年にジャズ・メッセンジャーズが初来日してファアンキーブームが起こり、
サンデー毎日」がファンキーブームを紹介したりした。」
 このあと、ジャズは前衛の時代となりまして、若い人はビートルズに代表される
音楽が全盛となるのでした。
 ジャズ喫茶という店がありましたが、60年代にはこれがバンド演奏による
ライブハウスのことであったり、ジャズのレコードを聴かせる喫茶店のことで
あったりしました。もちろんバンド演奏といっても本来のジャズ音楽を聴かせる
のではなく、ロカビリー、ロックンロールを演じるバンドがでていたのであり
ましたが、これは大都市にしかなかったので、小生にとってのジャズ喫茶という
のは、レコードを聴かせる店でしかありませんでした。
 ジャズ音楽が、一番メジャーな流行音楽であったということが、にわかに信じる
ことができないのですが、日本においてもそういう時代があったのでした。