裸の大将一代記

 小沢信男さんの「裸の大将一代記」がちくま文庫に入って、書店にならんでいます。
元版がでたのは99年となりますから、8年目の錦であります。
 元版での表紙は山下清さんの自画像作品でありましたが、文庫は南伸坊さんの
柔らかい肖像画でありまして、考えようによっては重たい本を、気軽に手にとれる
仕掛けとなっています。
 なぜ、山下清さんかについて、小沢さんは次のように記しています。
「 ここ十数年、私は人物評伝のたぐいをいくつか、短編に綴ってきた。
そのなかに『深沢七郎論』があり、この旧作を手直しするべく、山下清という
補助線を加えることを思いついた。これが発端だった。着手すると、補助線が
みるみるふくらんでくるではないか。
結果は、山下清を描きあげるための補助線に深沢七郎がなってしまった。
 じつのところ深沢七郎は、十三歳年長の不可解度の濃い大先輩で、くらべて
山下清は、私より五歳上なだけの兄貴分であった。ほぼ同世代を生きてきた感慨は
追いかけるほどに深まって、どうやら私自身も補助線の一本になった。いやそれに
してはでしゃばりすぎて、なかば自分史にもなってしまったような気が、
しないでもない。」

 「補助線の一本」というのがほんとによろしいことです。この本のなかでも
補助線は、あちこちに引かれていて、その補助線(ある意味 脇道への誘い)に
のっかると、まるで違ったところに導かれたりします。

「つめこむばかりでなく、才能を探ってくれる先生が、も、もっと多ければいいな、
やっぱり。・・・
松山市のデパートの会場写真をそえる。展示の貼絵の前に群がる子供たち、
大人たち。この記事の主題は、現今の管理主義的教育状況への疑問にある。
大江光を枕に、山下清と『践むな、育てよ、水をそそげ』の愛の学校八幡学園を、
そこからみなおしてくるわけだ。
  ・・・ 
景色にせよ、メロディにせよ決して忘れず、その感興を貼絵に、あるいは音に
あらわす者がいる。ほんらい万人にそなわっているかもしれないこの放心を、
たぶんわれらはせっせとすりへらして世間人になりおおせる。だから山下清の絵、
大江光の曲を、神様の授かりものとしかいいようがないし、涙ぐみもするのだろう。」

 本日の朝日新聞 定義集 大江健三郎さんの文章に、自作「ピンチランナー調書」
にふれたくだりがあり、「知的障害を持った子供と、その父親の、それぞれの内面が
入れ代わり、子供は沈黙しているが成熟した大人となり、父親はハイティーンの
無鉄砲と活気を取り戻し、東京中の抑圧的な権威に抗議してまわる。それを手紙で
伝えてくれる、という小説」
 こういうのをみますと、天下のノーベル賞作家の作品であっても、山下清さんの
補助線の一つに思えてくるのですから、不思議なことです。