貨客船の旅

 海外にでるのに飛行機を使うのが一般的になったのはいつころからでしょうか。
もともとは渡航なんてことばがあったことからもわかるように船を利用するのが
普通であったのでしょう。戦前にフランスに渡った人はもちろんで、大戦後も
留学生などは、船をつかっていくしかなかったでしょう。
 64年にソビエト・ライターズ・ユニオンから招待されてモスクワにわたった
石川淳旅行記は、「西ゆう日録」ということで発表されていますが、往路は
横浜港からナホトカへと船でいって、そこからハバロフスクから飛行機便で
モスクワにとんでいます。これは、ソビエトの正式招待でありますからして、
旅行日程もソビエトが設定したものでありましょう。
「 行程はまずロシアで三週間、それから東独とチェコをめぐって何日か、あとは
パリに飛んで、わたしひとりすくなくとも十月末までは帰らないつもりでいた。
十月末はすなわち東京オリンピックの終わったのちである。オリンピックの東京と
いう逆上ぶりをみないですませるためには、ちょうどわたりに船であった。」
( 原文は旧かな遣いです。 )
 石川淳は、この時がはじめての海外旅行であったとのことです。ほぼ二ヶ月の
旅行でした。
 須賀敦子さんの全集にある年譜をみますと須賀さんのお父上は、「36年7月に
日本貿易振興協会主催による世界一周実業視察団体旅行に参加、船で神戸港
発ち、ウラジオからシベリア鉄道にのり、モスクワを経由し、・・・パリ、ロンドン
サンフランシスコなどをめぐる。翌年5月に帰国。」とあります。ほぼ1年の旅行
ですが、船でわたってシベリアからパリというのは、石川淳と同じであります。
 このお父上から、遅れること17年たった53年に政府保護留学制度に合格して
須賀敦子さんは「パリ大学」への留学を決めたのでありました。
その旅程は、以下のようなものです。
「 53年7月2日 日本郵船の貨客船平安丸にて午前八時に神戸港を発つ。
 当時、海外留学する女性は珍しかったたため、『神戸新聞』に記事となる。
 ・・・8月10日 イタリアジェノワ着。はじめてのヨーロッパ。」
 スエズ運河を経由して、40日ほどの船旅でありました。
 この須賀さんの全集には、この旅行でつかった平安丸についての註釈がついて
いるのですが、それには、次のようにあります。
「正確には平安丸二世。日本郵船所属。貨物船では戦後初めて6000トンを
超えた外航船。1951年に就航。1952年6月、スエズ経由航路の再開
第1号となる。」
 この時、須賀さんと一緒にヨーロッパにわたったかたは3人であって、
その方々の名前も註でのっているのですが、この時代にあってもなお、
フランスにいきたしと思うがフランスは遠しという事情には、そうかわりが
なかったのでありましょう。