詩の悦楽について

 

 「詩の悦楽について」というのは、須賀敦子全集第5巻の巻末にある
池澤夏樹さんの解説のタイトルです。そこでは、須賀敦子さんのイタリア語の
詩翻訳の意義の理解についてふれています。

「 この仕事の意義を理解するには、詩についてのヨーロッパ的な常識を知って
いたほうがいいだろう。つまり、詩というものが文学全体、ないし人々の知的
生活全体に占める位置が、日本とヨーロッパではずいぶんとちがうのだ。・・
 日本では文芸の中心に小説がある。人々は小説を良く読むし、また話題にする。
新人賞の応募作も多い。それに比して詩の方はあまり読まれないし、話題になる
ことも少ない。・・・ 
 ヨーロッパだって小説はよく話題になる。イタリアならば、モラヴィア
カルヴィーノは大作家で、新作がでればみんなが読んだ。
 しかし、それと並行して、詩もまたあるのだ。詩は多く書かれ、読まれ、
文芸を支える柱の一本となっているのだ。・・
詩というものに関する日本人の認識はずいぶんと低い。センチメンタルなことを
甘ったるい言葉で行分けでかいてあるのが詩であったり、逆に理解しがたいほど
難解なものが詩だったり、いずれにしてもまともな大人が楽しんで読むものからは
遙かに遠い。」

 昨日まで話題としていた詩人「岩田宏」さんが、長谷川四郎さんと対談をして
いる古い「現代詩手帖」67年2月号を入手しました。これは「創造と組織」と
題されているものですが、この二人がソビエトチェコに行ったときの印象などを
二人して話をしています。

「 長谷川 昨年いったときにエセーニンの集会があって、エセーニンの詩を
 読んだそうだけれども、非常に盛会だったということをききました。・・
 エフトシェンコなんかはたいへんなアンコールで、何回もでてきてやった。

  詩集の出版部数とか売れかたは、日本と単位が違いますね。
 まあ詩集に限らないけれども。シンポジウムのとき、自己紹介で、ぼくの本は 
 三千部とか四千部しか刷らないといったら、『それで団長たる資格があるの
 か。』とかなんとかいった人がいるそうだよ。むこうでは最低の部数じゃない
 かな。」

 イギリスには、桂冠詩人なんて言葉があって、国の行事のときには、詩を
つくって発表するなんて役割の人がいるのですが、日本では、おりおりに
天皇が御製を発表したり、国民から短歌をあつめて「歌会はじめ」という
のをしていますが、残念なことに、天皇家が家族で詩を作ったなんて話は
聞いたことがないのでした。