芸人とパトロン

 雑誌「サライ」の08年1月17日号は「歌舞伎」を特集しています。
特集の冒頭を飾るのは、御年78歳の人間国宝である「中村富十郎」さんで
あります。
 舞踊の名手といわれる人でありますが、子どもころは家族の縁が薄くて、
早くに両親が離婚したせいもあって、父方の祖母に育てられ、12歳の時に、
祖母がなくなったあとは、関西歌舞伎にでていた父に引き取られたのだ
そうです。歌舞伎役者の家に生まれると、小さなときから習い事をして、
早々に舞台出演することになりますが、富十郎さんの場合は舞踊は三歳から
お稽古をしていましたが、初舞台に父親に引き取られた14歳になってからの
ことだそうです。
 14歳というのは、ずいぶんと遅いことであります。

 中村富十郎さんは、これで落ち着くことがなく、父親が再婚したことに
よって、実業家・安宅英一さんに預けられることになったのです。
 いうまでもなく、安宅産業のオーナーでありますが、富十郎さんが語る
によると「東京藝術大学に安宅賞奨学基金を設置して、様々な文化活動を
支援したかたです。」となります。(このほかにも、朝鮮やきものの大変
立派なコレクションがあって、これは安宅産業が破綻したあと住友のものと
なり、いまは大阪市の美術館に展示されています。)

「安宅邸では舞踊、能、鼓、声楽、日本画と、運転手付きの専用車に乗って
朝から晩まで稽古漬け。衣食住はもちろん、それらの月謝まで面倒を見て
くださった。『芸術は一流の者を』と、海外の演奏家の音楽会は一等席が
用意される。大相撲の時津風親方双葉山)との会食にも連れていかれてね、
終わると『今日の親方のお話で、どこに感心なさいましたか』と訊かれる
ものだから、気を緩める暇がない。」 

 昔は、書生なんてのを抱えていた人もいたとは聞きますが、学生を
あずかって上級学校にいかせるというのとは、ひと味違う金のかけ方で
あります。
 富十郎さんはデビューが遅くて、親の支援もすくなかったようですので、
かなり焦りを感じていたのでしょう。それに対しての安宅さんのアドバイス
のことばです。
「 同年代の若手の活躍を見ると、ものすごく焦りを感じる。安宅さんには
それを厳しくいさめられた。『まず自分の勉強に励みなさい。今の勉強が
将来、必ず役にたちますから』と。」

 最近は、このようなスケールの大きなパトロンというのがいなくなって
しまったようであります。だんながいなくなって、サラリーマンのような
経営者ばかりになったということでしょうか。
 
 先日にブックオフで購入した赤塚不二夫「笑わずに生きるなんて」中公文庫
には、「僕の自叙伝」というサブタイトルがついています。そういえば、
赤塚不二夫は、そのはちゃめちゃさで、若い人たちをそだてていたのであり
ました。
 赤塚不二夫のところに居候でころがりこんで、のちに有名になったという
人に「タモリがいます。このタモリに対する赤塚不二夫パトロンぶりが
愉快であります。
「 さて、ある晩、九州から面白い芸をやる男が来ているというので、
 編集者たちとでかけていった。二十人入るともう超満員という店に、それを
超す客がつめかけている。・・
 すっかり感動してしまったぼくは、彼タモリをなんとしても芸人として
デビューさせようと決心した。こんなにおれたちが面白いと思うのだから、
他の人たちだって面白いに違いない。タモリを九州に返すな。これが
常連たちの願いだったのである。
 タモリにきいてみると、彼は三十近くになって、女房がいるのに現在は
定職がなく、ぶらぶらしているという。よし、ぼくのマンションへ下宿しろー
ぼくはそういった。
 テレビやラジオに仕事が見つかり、めしが食えるようになるまで、ぼくの
目白のマンションを提供することにしたのだ。・・
 こうしてタモリがぼくのアパートを根城に活躍をはじめた時期、ぼくは
どうしていたかというと、下落合のフジオ・プロの机の横の窓際にフトンを
敷き、そこに寝泊まりをしていたのである。
 主人はあくまで貧しく、芸人タモリは部屋代が十数年前のマンション、
ぼくのハイネッケンビールを冷蔵庫から出して快適な暮らしを、タモリ
珍芸同様、タモリの私生活も不思議なものであったにちがいない。」