多田道太郎さん追悼

 今月2日に、多田道太郎さんが亡くなったと報道がありました。最近は、
まったく多田さんの本も読んでいないことだ思ったのですが、すぐに手の
届くところには、多田さんの著書は見当たらないのでした。ちょうど、
小生が学生のころに「しぐさの日本文化」などの本が刊行されたはずです。
もともとは、フランス文学畑のかたですが、小生が親しんだのは、どちらかと
いうと、日本文化についての著作を通じてでありました。
 本日の朝日新聞に掲載されていた多田さんの追悼文は、鶴見俊輔さんであり
まして、これは長いつきあいに裏打ちされた、たいへん良いものでした。

「 共同研究がはじまると、多田はルソーの言語紀元論を掘り起こし、それに、
 独自の位置をあたえて共同研究をひっぱった。この論文は、多田道太郎
 生得の言語感と響きあうところがあり、その後の多田の仕事全体を支えた。
  私は日本語を書くのに苦しんでいた。多田の論文が日本語特有の文尾の
 単調さを免れているのを、お呼びがたしと思っていた。
多田道太郎の講義は、NHK放送の際になんらカットされなかったのに納得
 した。なだたる教授たちの中で、話芸として多田道太郎の講議は随一の
 出来ばえだった。」朝日新聞 07年12月6日 鶴見俊輔 

 多田さんが亡くなって、急に多田さんに言及される文章が増えて、はてなでも
多田さんについての文章をみることができるようです。多田さんというば、
亡くなった娘さんについてのことを、書いてみるようにしようかと、思案を
巡らして、あちこちのブログを見物していたら、多田さんの娘さんである
「多田謡子弁護士」についての記載をしているものを一本見ました。

 多田謡子さんは、86年に亡くなった多田道太郎さんの娘さんで、弁護士を
していました。幼い時から反骨ぶりで、これはどなたににたのでありましょう。
教育大学付属中へと通っていて、活動家のようになって、そのまま高校を卒業、
大学進学後に人権派新左翼系の弁護士)として、活躍して、まもなく
亡くなったのであります。
 多田謡子さんを記念する賞がありまして、それは娘さんの財産を基本財産に
行われていましたが、これが枯渇してきたので、賞はなしにと決定したら、
大口の寄付などをいただいて、ことしからも賞を授与していくことができる
ようになったとありました。
 この娘さんには、遺稿集がありまして、編集工房ノアからでていました。
いまでも多田賞の副賞には、この謡子さんの著作がおくられるのだそうです。

 しかし、父親にとっては、とってもたいへんな娘さんであったのではないかと
思ってしまうのでした。
 娘さんを記念する人権賞のホームページには、謡子さん86年の年賀状の
あいさつぶんが掲載されているのでした。このページは多田謡子さんの名前が
URLとなっていて、死後も娘さんの名前は未来にむかって残っているのでした。

「ご両親から寄託された多田の死亡保険金にカンパを加える形で出発した多田基金は、
資金の枯渇から、ここ数年間、賞金を10万円に減額するかたちで運営してきましたが、
資金がほぼ尽きたため、昨年末の第18回受賞式で、運営を休止する方向であると
報告したところ、参加していただいた皆さんや過去の受賞者から、「やめるな」
「続けよう」という暖かな励ましを多数頂戴しました。それを受けて3月に継続の
ための相談会を開催し、広く募金を呼びかけるかたちで、再出発することを決定しま
した。幸いにも、すでに非常に高額の寄付を複数いただいたほか、カンパのお申し出も
おうけしています。
 憲法改悪への流れ、権力的な国家、権力的な社会への流れが加速している中で、
一方では、権力にあらがい、人権と自由を求め続ける多くの人々が闘いを継続して
います。多田基金に対して、貴重なご寄付の申し出が続くこと自体が、人々の中に、
権力的な社会と闘い続けたいという意志が深く広く存在することの証だと思います。
人々の声援を受けて、多田基金は今後とも微力ながら頑張っていきます。」


[私は、私の敵と闘い続けるわ−−−−
と言い続けて、16年がたったような気がします。
その間、私の敵は、何度も、見え隠れしましたが、敵は敵。
また、のんびりと、闘い続けたいと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−1986年「年賀状」