多田道太郎さんと小沢信男さんの軌跡は、どうして交わるようになったのだろうかと
思っています。一番ありそうなのは鶴見俊輔さんまたは「思想の科学」を通じてであり
ましょうし、そうでなければ小沢さんが参加していた「ヴァイキング」の人のつながり
によってでしょうか。どこかに書かれているのかもしれませんが、俳句会でご一緒する
ようになった時には、すでにお知り合いであったとあります。
昨日に引用した多田道太郎さんの文章の続きには「学成らず」の句を眼にして、これ
できまりと思った八十五,六年に、「もんじゃを知らなかったぼく。あつかましくも
小沢さんに『もんじゃ』って、何?とうかがいました。」とありました。
85、6年には、小沢さんのことをご存じで、あつかましいかもしれないけども、このよう
な電話をする関係となっていたのですね。
「余白句会」に参加するようになったのは、95年初頭からだそうです。これからしば
らくは、多田さんの東京での講義や所用にあわせて句会は開かれ、ほぼ皆勤で出席され
たとのことです。
「けれでも、このころに(2000年)、私より一回り若い辻征夫氏が、ばったり逝って
しまった。あれがなにかの区切り目だった。彼の才質を愛してやまぬ多田氏の足がみる
まに遠のき、やがて私も。」
( 2007年12月8日 産経新聞 多田道太郎氏を偲ぶ 小沢信男さんの文章から引用)
多田さんも辻征夫さんの才能を高くかっていたのですね。信頼する自分よりも若い人に
亡くなられるというのは、やはりショックが大きいといえます。
ここに引用した小沢さんの「多田道太郎氏を偲ぶ」という文章は、小沢さんによる
多田さんの肖像であります。もうすこし引用させてもらいましょう。
「氏は痩躯で、食もほそくていながら、それにしては活力がおありだった。思い立つと
つぎつぎに想が湧いてやまぬ気配で、だから飄々と腰が定まらなくもみえたのではない
か。・・氏は好奇心という大量の霞をパクパク摂取して、エネルギー源とされていたの
ではないか。いくらか仙人めいていました。
痩躯のわりに帽子はLサイズ、またはLLサイズでした。じつは私も帽子だけがL
サイズなんだが、あるとき夏の藁帽子をお借りしたらゆるゆるでしたもの。あの大頭蓋
のなかには、フランス語大辞典をはじめ、どれほどの古今東西の学識が詰めこまれてい
たもんだろうか。
われら無学者には思いのほかながら、あえて申せば、その配列や組み立てが象牙の塔
では、おそらくなかった。むしろ遊園地方式だったのではなかろうか。
多田道太郎著作集全六巻のタイトルからして、おもしろそうなパビリオンがならんで
います。・・
学者にむかって、ご無礼な言いぐさかもしれませんが、なぁにかまうものか。そんな
ふうに変わり者の碩学と、一時期ご昵懇にねがえたことを、われら一同幸運と思うまで
です。」
そういえば、小沢信男さんには、次の共著がありました。
時代小説の愉しみ 多田道太郎、小沢信男,原章二 平凡社新書, 2001
- 作者: 小沢信男,原章二,多田道太郎
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2001/03/01
- メディア: 新書
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