小沢信男著作 202

 多田道太郎さんと小沢信男さんの軌跡は、どうして交わるようになったのだろうかと
思っています。一番ありそうなのは鶴見俊輔さんまたは「思想の科学」を通じてであり
ましょうし、そうでなければ小沢さんが参加していた「ヴァイキング」の人のつながり
によってでしょうか。どこかに書かれているのかもしれませんが、俳句会でご一緒する
ようになった時には、すでにお知り合いであったとあります。
 昨日に引用した多田道太郎さんの文章の続きには「学成らず」の句を眼にして、これ
できまりと思った八十五,六年に、「もんじゃを知らなかったぼく。あつかましくも
小沢さんに『もんじゃ』って、何?とうかがいました。」とありました。
85、6年には、小沢さんのことをご存じで、あつかましいかもしれないけども、このよう
な電話をする関係となっていたのですね。
 「余白句会」に参加するようになったのは、95年初頭からだそうです。これからし
らくは、多田さんの東京での講義や所用にあわせて句会は開かれ、ほぼ皆勤で出席され
たとのことです。
「けれでも、このころに(2000年)、私より一回り若い辻征夫氏が、ばったり逝って
しまった。あれがなにかの区切り目だった。彼の才質を愛してやまぬ多田氏の足がみる
まに遠のき、やがて私も。」
 ( 2007年12月8日 産経新聞 多田道太郎氏を偲ぶ 小沢信男さんの文章から引用)
 多田さんも辻征夫さんの才能を高くかっていたのですね。信頼する自分よりも若い人に
亡くなられるというのは、やはりショックが大きいといえます。
 ここに引用した小沢さんの「多田道太郎氏を偲ぶ」という文章は、小沢さんによる
多田さんの肖像であります。もうすこし引用させてもらいましょう。
「氏は痩躯で、食もほそくていながら、それにしては活力がおありだった。思い立つと
つぎつぎに想が湧いてやまぬ気配で、だから飄々と腰が定まらなくもみえたのではない
か。・・氏は好奇心という大量の霞をパクパク摂取して、エネルギー源とされていたの
ではないか。いくらか仙人めいていました。
 痩躯のわりに帽子はLサイズ、またはLLサイズでした。じつは私も帽子だけがL
サイズなんだが、あるとき夏の藁帽子をお借りしたらゆるゆるでしたもの。あの大頭蓋
のなかには、フランス語大辞典をはじめ、どれほどの古今東西の学識が詰めこまれてい
たもんだろうか。 
 われら無学者には思いのほかながら、あえて申せば、その配列や組み立てが象牙の塔
では、おそらくなかった。むしろ遊園地方式だったのではなかろうか。
多田道太郎著作集全六巻のタイトルからして、おもしろそうなパビリオンがならんで
います。・・
 学者にむかって、ご無礼な言いぐさかもしれませんが、なぁにかまうものか。そんな
ふうに変わり者の碩学と、一時期ご昵懇にねがえたことを、われら一同幸運と思うまで
です。」
 そういえば、小沢信男さんには、次の共著がありました。
 時代小説の愉しみ 多田道太郎小沢信男,原章二 平凡社新書, 2001

時代小説の愉しみ (平凡社新書)

時代小説の愉しみ (平凡社新書)