入学試験にでる文章

 大学入試センターが出題方針の変更を検討しているということを題材にして、
外山滋比古さんが「みすず」11月号に文章を寄せています。
いままで、このようなこと観点から入試問題を考えたこともありませんでした。

「 これまでのように既出問題をタブー視すると、国語では昨日、今日の問題の
コラムなどを問題にしがちになって、出題の原理を忘れる。試験問題になる文章は
出来立てホヤホヤではいけない。出題者自身の文章など論外である。生木で家を
建てる大工はない、というが、多少、古くなり枯れているのが望ましい。老練な
出題者なら心得ていることだが、これまで入試センターは長年それを禁じていた
のだからおかしい。 
 問題をつくるのは、問題に答えるよりはるかに難しい。まず土台になる文章を
選ぶのが大変である。本のどこからでもテクストをとってこられるように考えて
いては出題者の資格はない。問題として引用できるところは一冊の本でもごく
限られている。優秀な出題者ならそれを見逃さないから、しばしば符合がおこる。
別に示し合わせたわけではないのに、頻出問題というのが生まれるが、決して
不自然ではないのである。
 文章の側からすれば、目利きの出題者から引用されるのは、評価を受けることで
ある。それによって、わずかではあっても古典化している。出題者は意識しないで、
文章を古典化させる。古典化はゆるやかなルールによって行われるから、多数の
出題者が少数の古典をつくることになる。」

 このあと、頻出問題の例として、サマセット・モームの文章が英語試験によく
でていたことに続いていくのですが、「出題者は意識しないで文章を古典化させる」
というところがよろしです。
 入学試験に採用されることを名誉なことと感じる文章家がいる反面で、引用される
ときに改編されたりすることがあることを理由に、つかわないでほしいという人も
います。しかし、大学入試センタークラスになりますと、事前に著作権者の了解を
得るというのは事実上、不可能なことでありましょう。
 最近は入試センター試験が遠い存在となっていますが、数年前の国語問題を
みておりましたら、現代文が「野呂邦暢」さんの文章からとられていました。
 野呂さんの復活のためには、この年の入試センター出題も後見しているので
ありましょうか。