世界中には原子爆弾はあふれるほど存在しているのですが、これまで
戦争で使われたのは二回のみで、そのどちらもが大日本帝国といわれた
日本にでありました。最後に原爆が投下されたのは長崎でそれから74年と
なります。先日に戦時中に熊本の旧制高校生で八代の工場に動員されて
いた人に話を聞きましたら、ちょうど爆発したときに大きな雲が、湾の向こう
にあがるのを目撃したといってました。
長崎の原爆投下による爆発を目撃といえば、その時に諫早にお住まいで
あった野呂邦暢さんもそうでありました。野呂邦暢さんといえば、思い起こす
のは野呂さんについて「彷徨と回帰」という本を出している中野章子さんで
ありますが、本日は「彷徨と回帰」を取り出してきて、それで野呂さんと原爆の
ことを確認してから、野呂さんの文章にあたることとなりです。
以下は「彷徨と回帰」からの引用となります。
「長崎に落とされた新型爆弾(原子爆弾)によって、長崎の家は焼失、少なか
らぬ財産は灰燼に帰した。帰る家を失くした一家はやむなく戦後も諫早へ住み
着くことになる。邦暢少年が通っていた長崎市立銭座国民学校は爆心地から
1.5キロに位置し、44(昭和19)年には三十七学級、児童数二千三百名と当時
の長崎では最も大きな小学校であった。翌45(昭和20)年には疎開者が相次ぎ、
在籍する児童は八百五十名ほどに減っていたが、そのうちのおよそ五百人が原
爆の犠牲となっている。同級生のほとんどが被爆死しており、野呂は幼なじみと
生まれ故郷を同時に失った。故郷の町の消失はどんなにか大きな衝撃を彼に
与えたことだろう。」
そういえば、中野さんがやってらっしゃるブログの更新がもう四ヶ月ほど
もとまったままであります。体調でも崩していなければよろしいがと、心配に
なったりしてです。なにか大きな仕事でもしていて手一杯なのかな。