「平野甲賀 装幀の本」2

 本日もリブロポート「平野甲賀 装幀の本」から話題をいただきです。
 この本は全部で150ページくらいでありますが、1ページに数冊もが
押し込められているのですが、そのなかで1ページを占めているのは、
平野さんにとっても印象深いものとかなのでしょう。
 最初に一冊で大きく取り上げられているのは、佐藤信の「嗚呼鼠小僧
次郎吉」(71年)であります。

「 六月劇場と自由劇場と発見の会の3劇団が合体して『演劇センター』と
いうものをつくった。各劇団が個別公演をして、そのほかに合同のものを
やったんですね。いま考えるとたいへんなエネルギーですよ。舞台装置が
わたしなんです。公演ポスターと本のイラストが同じで、これは北斎
なんかの浮世絵から起こしたんですね。書き文字もいま見ると固いね。
 いちばん思い出すのはね、芝居の稽古やっているところに、この校正刷りを
持っていったんですね、そしたら、みんな集まってきて『すごい、やったな』
って感激するわけですよ。佐藤信なんかも昂揚してね。それでその刺激でもって
また稽古がつづくっていう、やっぱりあの時代でなきゃできないことでしたね。」

 晶文社というと、演劇運動にも深く関係していたのでした。編集者の津野
さんが黒テントのスタッフでありましたので、演劇関係の本も多くだしていた
のでした。

 次ぎに大きく取り上げられているのは、76年にでた「長谷川四郎全集」で
あります。
「 ぼくは、長谷川四郎さんの詩がまえから好きだったんです。文章もきれいで
 だし。だから四郎さんの書くものは、必ず読むようにしてたんですね。
ところがなかなかきっかけがなくて、装幀の仕事、やらしてもらえなかったんです。
 ・・・ この全集は、ぼくが理解している四郎さんはこういう人だというデザイン 
です。もちろん全集だけど並製でね。
 これが書き文字というものを意識した最初の仕事かもしれませんね。写植文字では
もう、とても表現しきれないと感じはじめていたんです。晶文社からは書き文字と
いうのは、しばらく拒否されていましたね。『読めない』っていう理由で。」
 
 書き文字の最初の仕事とありますので、この文字は、最近の平野さんのものとは
印象が違っています。平野さんの発言にもあるように、長谷川四郎さんを文字
デザインで表現をしたらどうなるかということで、作った文字でありますから、
ほかではあまりみることができないものです。
 強いていえば、「平野甲賀 装幀の本」の表紙でつかわれている文字デザインが
一番印象が近いかもしれません。

 平野さんが、長谷川四郎さんの本を最初に手がけたのは、詩集でしたが、それに
ついては次のようにありました。
「 とても残念なのはね、やっと巡ってきた四郎さんとの初仕事『原住民の歌』という
詩集がね、晶文社にもぼくのところにも、原本がなくてね、この本に収録できなかった
のですよ。ぼくはそれを、ポケットに入るような詩集にしたかったんですね。四郎さんの
詩って、童謡みたいに短いでしょう。ところが、それが、部数との関係で2000円
近い定価になっちゃって・・。出版の矛盾を初めて知らされた、悲しい思い出でも
あるんですけど。」

 「原住民の歌」は限定千部でありました。この平野さんのコメントをみたときに、
小生は、この「原住民の歌」を2冊もっていましたので、晶文社にはがきをだして、
よろしければ、小生の「原住民の歌」と当時非売品で入手できなかった小野二郎
追悼文集「大きな顔」(小野二郎の人と仕事)を交換して下さいと、お願いをした
のでした。とりあえず、提案は受け入れられて、小生は「大きな顔」を、そして
晶文社または平野甲賀さんは、「原住民の歌」を確保することができたのであり
ました。 ( これで、次ぎに平野甲賀装幀の本がでるときは、「原住民の歌」が
掲載されることになるでしょう。
昨日にかきましたが、小沢信男さんの「わが忘れなば」がこの本にのっていないのは、
単に晶文社に、この本が保存されていないからに過ぎないのかもしれません。)