洛陽の紙価

 戦後しばらくは紙の生産が十分でなくて、出版をしようとしたら、まずは紙の
確保にめどをつけなくてはいけないのでした。当時は、活字にうえていたせいも
ありまして、ちょっとした出版物はすべてうれましたので、紙の奪い合いがおきて
それが「洛陽の紙価を・・」ということになったのです。
 先日に入手した「極光のかげに」は14刷とありますので、相当にたくさんの紙を
確保することが必要でありましたでしょう。
戦後のまもなくは、国内で紙を生産している工場自体が少なかったせいもあって、
出版社自体が、製紙工場の近くに支社を構えることになりました。これは配給という
ような統制経済のせいでありましょう。
 本日に購入した「岡崎武志」さんの「古本病のかかり方」ちくま文庫には、
「札幌講談社」という一章がありました。「札幌講談社」というのは、講談社
出版事業を継続するために昭和20年ころに設立した会社だそうです。
「要するに、戦中、戦後の出版業務の混乱と用紙難が札幌講談社を生んだのだった。
・・・
 札幌講談社は、その疎開策の一環として、北3条西1丁目富貴堂内に置かれた。
これが後に北海道支社すなわち札幌講談社になったのだという。それがなぜ北海道と
いう遠隔地でなければならなかったか。じつは戦前、戦中の用紙難と北海道は深い
関係がある。北海道には当時、『苫小牧製紙』という大きな製紙工場があった。
それは戦前の用紙原料の45%を、その頃日本領だったカラフトが供給したことも
関係する。紙飢饉にあえぐ敗戦前後の日本列島において、北海道こそ紙の潤沢な
土地だった。ところが、戦後カラフトがソ連領となってからは、北海道の紙の
生産量もがた落ちする。」

 戦後の一時期に、講談社や札幌青磁社など札幌は出版の中心地の一つでありました。
実際は東京で企画されたものですが、本の奥付には、出版地は札幌の住所が表示され
ていました。こうした状況がいつころまで続いたのか、たぶん、北海道の紙の生産量が
激減したと同時に撤退したのでありましょう。
 当時、講談社が事務所をおいた富貴堂というのは、札幌にあった老舗の書店で
ありましたが、再開発のためにパルコをテナントとするビルの中にはいって、
その店には、かっての木製の看板が掲げられていましたが、いつのまにか閉店と
なっていました。ちょうど札幌に紀伊国屋が進出して、旭屋が大きな店舗を近くに
だしたころでありました。