米川サロンとは

 「米川サロン」というのでグーグル検索をかけますと、以下のひとつにヒットする
のでした。ひとつしかでてこないということは、一般的には「米川サロン」という
ふうにはよばれていなかったのかもしれません。
 しかし、それがでてくるのが、「矢牧一宏」さんに関するところであるというのが
なかなか意味深であります。矢牧さんは、旧制一高の学生を中心とした文芸誌「世代」
につながるひとで、その後も「血と薔薇」とかさまざまな出版をてがけ、出版社を
起こしてはつぶした人と記憶しております。

 矢牧さんのための略年譜の54年のところに、以下のようにあるのでした。

 「『 米川サロン』に出入り。米川丹佳子に坂本一亀を紹介され河出書房入社。8月頃退社。

  米川夫人の依頼で、彼が河出に入社したのは昭和二十九年の春ごろでしょうか
 (はっきりいたしません)、
 出版の私のもとで吉行氏の作品交渉にあたらせたのですが、先約がありうまくいきません
 でした。そのうちに社に出なくなったので問いただしたところ(略)その後、拙宅にみえて
 よく話しあった記憶があり、社長に頼んで雑誌「文藝」(巌谷大四編集)に配属して
 もらったのですが、一ヵ月後に文藝部から返されました。それからまもなく河出を
 やめたのです。(坂本一亀の矢牧さんについてのコメント)」
 
 昨日には米川夫人は橋本一明と知り合いでと記しましたが、橋本は「純粋精神の系譜」と
いう著作がある文学者で、このひとも世代につながる人ではなかったか。(どこかに
「純粋精神の系譜」があるが、時間がなくて見いだすことができません。)
 とにかく、米川夫人につながる人をたぐっていけば、そうそうたるメンバーがでて
くるのですが、一番最初に懇意となったのは、どなたでしょうか。米川正夫さんのご子息は
米川良夫さんと和夫さんであると思いますが、そのふたりのどちらかが、世代グループで
ありましたろうか。なかなか探索に興味がわくことでありますが、これまでのところ、
この米川夫人が、どういう経過で、スポンサー役をつとめるようになったのかはネット
検索でも知ることができません。関係するひとたちはたくさんの著作を残していますので、
そのどこかに、この謎を解く鍵があるのでしょう。