月が変わって 4

 本日はごろごろとしながら、手近にあります本を読んでいました。
 手にした順であげていきましょう。

丸谷才一 (文藝別冊)

丸谷才一 (文藝別冊)

「文藝」の別冊で「追悼総特集」であります。
これの編集後記には、次のようにありました。
丸谷才一特集を組ませていただく、ということは、三十年来、自分のなかでは、宿題
のようになっていた。積年の思いを遂げることができ、光栄に思う。」
 河出書房といえば、1960年「エホバの顔を避けて」、1966年に「笹まくら」を刊行
した版元であるのですが、その後は結びつきが弱くなって、これには河出編集者として
は無念を感じていたことでしょう。
 この「追悼総特集」にある「栗原裕一郎」さんの評論にあったくだり。
「丸谷に対する評価は『たった一人の反乱』以前以後で分かれることが多い。処女長編
『エホバの顔を避けて』新装復刻版には松浦寿輝の開設が新たに加えられているのだが、
松浦はそんな場所だというのに、『わたしは『エホバの顔を避けて』を偏愛し、『笹ま
くら』を賛嘆してやまない者だが、ただし正直なところ、第三長編の『たった一人の
反乱』以降、『裏声で歌へ君が代』『女ざかり』『輝く日の宮』『持ち重りする薔薇の
花』と続く・・上質な『市民小説』の系譜に属する丸谷の諸作には、あまり心が震えた
ためしがない』と書くのである。」
 当方も「たった一人の反乱」は読み返した記憶がありだが、それ以降の長編小説は
再読することもなしでして、それは「あまり心が震えなかった」からでありましょう。

 次に手にしていたのは、中井久夫さんの次のもの。

記憶の肖像

記憶の肖像

 このなかで読んだのは、「荒川修作との一夜」という文章。
「私はあわてていた。
前日、京都大学木村敏教授から電話があった。『アラカワ・シュウサクという画家
がボクたち二人にあいたいんだと。哲学者の市川浩さんからの依頼だ。・・・』
茫然とした。『荒川修作って・・・・」といいかけたところで、電話は切れた。・・
私のほうは、そもそも荒川修作を知らなかった。私は、実は単純な『フネ大好き人間』
で、神戸に腰を据えたのも、元町の書店・海文堂へゆくのも、その部分がそうとうに
大きい。しかし、今回はギャラリーにはいって、主人の島田さんに聞かないわけには
いかない。
 島田さんは、ちょっとびっくりされたようだった。口ぐせであろう、『ハイハイ』と
いう相槌をうちながら、わたしの話を聞きおえて、やおら、中にはいって、ちょっと
見には設計図の汚れたもののような版画を二枚、持ってこられた。」
 これを見ると中井久夫さんは、神戸 海文堂さんがひいきであったことがわかります。
閉店されたことが大きな話題となったところでありますが、中井さんも残念がっていた
のでありましょうか。
 ところで荒川修作さんは、どうして木村敏中井久夫両氏にあいたいと思ったかで
あります。この文章の終わりのところに書かれています。
「有名な文化人類学者で脱領域の知性であるY氏の米国における学会発表の抄録である。
 出ている。私にかんしては誇大広告もいいところである。氏のつね日頃からのご厚情
には濡れるが、やはり気はずかしい。占領軍世代である氏の頭のなかには、存外『日の
丸』がへんぽんと翻っていて、あれこれのニューヨーク知識人に一種の国威の発揚を
なさったのかな、とふと思った。」
 ニューヨークで中井久夫さんが知られるにいたったのは、山口昌男さんの論文のため
というのは、いかにもありそうなことであります。