精神の風通しのために2

 戦後日本の文学エリートたちが集っておこしたのが雑誌「世代」でありまして、
小生は今にいたるまで、現物を手にしたことはないのですが、まさに「ベスト
アンド ブライテスト」いうにふさわしいメンバーが集まっていました。
 日高普さんは、結局のところ文学ではなく、経済学者となるのですが「世代」に
寄稿した文章も含めて、「精神の風通しのために」では読むことができます。
影響力が強い、こういう文学集団が活動を始めると、このグループに属さない若手
の作家たちは、この集団に行く手を阻まれてなかなか世に出ることが難しかった
ような話を聞いたことがあります。このグループで新人賞でもまわされたものなら、
まるで圏外の作家は、候補に残ることも難しかったことでしょう。
 「世代」は最初は目黒書店を出版元にスタートし、そのご目黒書店との関係が
切れてから、ガリ版印刷で再スタートしたとのことです。
ここでの日高普さんは、「浜田新一」さんというペンネームを利用しているのですが、
これの由来はつぎのようになります。
「 浜田は当時のフライヤーズの二塁手から、新一は俳優 日守新一からとったもので、
くせがなくて、さりげないところが気に入っていた。」
 このお二人のことは、まったくしることがないのですが、浜田という野球の選手は
どのような人であったのでしょう。 
 この本「精神の風通しのために」は、「米川夫人と故米川正夫氏」に献じられて
いますが、これは次のような事情によります。
ガリ版で三号出したあと『世代』は、活版にかえられるようになった。米川正夫氏の
夫人が紙代を負担してくれることになったからである。米川夫人とぼくとは、いわば
療養仲間であった。退院ののち、頻々と訪問し、世代の友人たちをつれていったりも
して、米川夫妻のひとかたならぬ世話になった。本書のような雑文集を夫妻にささげる
のは、かあえって失礼かとも思われるが、多年にわたる厚意にあまえ、お許しを乞う
次第である。」_
 昨年の10月に、米川サロンとか米川夫人の若手文学者へのスポンサーぶりについて
記した時に、米川さんと橋本一明さんとの付き合いからはじまったようだと記したので
ありますが、どうも、最初におつきあいがはじまったのは、日高普さんのようであり
まして、ここから「世代」のメンバーと米川夫人との交流が広がっていったようです。