「洛中生息」杉本秀太郎

 杉本秀太郎さんは、京都大学フランス文学科の出身ですから、山田稔さんや
大槻鉄男さんと同窓ということになります。みすず書房からでている「洛中生息」を
みましたら、昭和25年秋に教養課程から専攻科をきめる口頭試問に臨んだの
ありますが、新制第一回入学者にはフランス文学志望が非常に多かったとありました。
「膨れ上がった仏文科の大世帯を最も憤慨しておられたのは、仏文科主任教授の
伊吹先生だった。われわれのほうは、先生の目が届かぬのをいいことに、心得違い
にも不勉強不行跡の限りをつくした。
 中国文学科は、専攻生がわずかに7名に過ぎなかった。もっとも七名というのは、
ここでもやはり未曾有の数で、三名が常識だったそうだが、少数七名の中国文学
専攻生は、かわるがわる吉川先生と一対一で演習をうけることができたのである。
かれらが大学院生になると、吉川先生の訓練はさらに苛烈をきわめた。のちに
高橋和己が私の家に泊まったのち、こんなことを話してくれた。
 あるとき一対一の演習の馬で、高橋は師のあまりの厳しさに、師の視線をとらえて
にらみ返したが、やがて涙が滂沱として頬を伝い流れ、膝をぬらすほどであった。
そして、こちらが涙の目でにらみつけている師の目にも、そのとき涙が光って
いた。・・・」

 「洛中生息」という著作は、京都新聞に連載された文章を中心にまとめられて
いますが、京都についたものに独自の視点があります。
「 京都ブームというのもまた、服装の流行と同様に、作り出された流行である。
この場合には、京都を作り出すものは映像である・・・
 京都の町なかに生まれ、いまも同じ場所で暮らしている私にとって、京都は
決して観光の町ではなく、単に生活の町である。観光客が道をたずねたら、
私はごく親切に道を教えるが、そのことと、観光ということに対してきわめて
水くさい気持を抱き続けていることとは、私において特に矛盾はない。
観光客の出口が私の戻り口なのだから、これはそうあって然るべきところだろう。」