当方が一番最近に長谷川四郎さんの名前を眼にしたのは、芸術新潮「定形外郵便」
第24回「体験の角度について」においてでありました。著者は堀江敏幸さん。
堀江さんは、最初の文芸評論集「書かれる手」で長谷川四郎さんを論じています。
「脱走という方途」と題された文章は、1988年24歳の時に「早稲田文学」に掲載と
なったものですが、これが読むのに苦労するものであります。
- 作者: 堀江敏幸
- 出版社/メーカー: 平凡社
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「『フランス現代思想』全盛の当時、仏文科に籍を置きながら、日本だのフランスだ
のに関係なく、具体的な作家への共感に依拠する言葉をつづるのはずいぶんと勇気の
いることで、少なくとも私は周囲から完全に孤立していたと思う。『脱走という方途』
には、そんな時代の空気といらだちが反映されているかもしれない。」
1988年 24歳仏文学生が長谷川四郎を論じるというのは、相当に珍しいことであった
には違いありません。そして、これが話題となることもなかったように思います。
とにかく難しい文章でありますからね。長谷川四郎さんの小説を論じるに、こんなに
難しくしなくてもよろしいのにと思うことでした。
この「脱走という方途」から、一番わかりわかりやすいところを引用です。
「長谷川四郎の脱走兵の特徴は、脱走そのものが目的ではなく、振り向いてみて、それ
が脱走と呼ばれるものであったことに気づくという、転倒した理路にあるのだ。この
独自の行動様式が、彼の世界を貫徹している。」
それで「体験の角度について」であります。
この「体験」というのは、「シベリア抑留体験」のことでありまして、中心として書か
れているのは「久永強」という画家のシベリア時代の絵画についてでありますが、この
久永さんの抑留に至る経緯をたどって、それがどう作品に反映されているかを考えるの
あります。
どうようのことは長谷川四郎さんの本を読んでいても感じたとあります。この文章も
すこしわかりにくいのですが、最後は次のように終わっています。
「長谷川四郎が描き続けた内と外を同時に眺められる空白地帯の沈黙は、この罪の意識
と無関係ではないだろう。彼の散文は、だからけっして無傷の日常には近づかない。
その意味を、私はいま、以前とは異なる気持ちで受け止めている。」
文章全体の一番肝腎なところをカットしているのですから、引用した結句のところを
見ても、なんのこんちゃという感じでありましょう。当方にとって問題は、肝腎の所を
眼にしてもよく分からないところがあることでした。