寛容について

 「寛容について」というのは、フランス文学者 渡辺一夫さんの基本的な用語で
あり、筑摩叢書からでていた著書のタイトルでもあります。(この本は、大江健三郎
さんが編集したアンソロジー
 昨日にとりあげた「四方田犬彦」さんの文章にあった「不寛容」という言葉に反応した
のは、渡辺一夫さんの文章のことを思い出したからです。それは、「寛容は自らを守る
ために不寛容に対して不寛容になるべきか」という長いタイトルの文章であるます。
このブログを記するにあたって、コンパクトな「ちくま日本文学全集」を参照していま
すが、そのページには、ぎっしりと「寛容」と「不寛容」の文字がつまっているのです。

「悲しいまた呪わしい人間的事実として、寛容が不寛容に対して不寛容になった例が
幾多あることを、また今後もあるであろうをも、覚悟はしている。
 しかし、それは確かにいけないことであり、我々が皆で、こうした悲しく呪わしい
人間的事実の発生を阻止するように全力を尽くさねばならぬし、こうした事実を論理的に
でも否定する人々の数を、一人でも増加せしめねばならぬと思う心には変わりがない。」

 この文章が書かれたのは、51年でありますが、附記1として67年には自らが
これがかかれた時代背景について記しています。
「 1950年に朝鮮戦争が勃発した結果、我が国の経済界は、いわゆる特需なるもので
活気を呈してきた。そのころ、この雑文は書かれた。その時分から、何か歯車の軋むような
ぎりぎりという音がひとしお強く聞こえ始めたように思う。・・・ 
 現在、佐藤栄作首相も、「寛容」を説かれる。しかし、首相が「有言不実行」の癖を
持っておられるように思えてならないから、同首相の「寛容」に対しては、警戒的な
気持ちを抱かざるを得ない。ゲシュタポの長官でも、「寛容」という言葉を、にやにや
笑いながら唇に乗せられたからである。」
 
 70年の附記2には、次のようにあります。
「 自己批判を自らせぬ人は寛容になりきれないし、寛容のなんたるかを知らぬ人は
 自己批判を他人に強要する。自己批判とは、自分でするものであり、他人から強制される
 ものでもないし、強制するものでもない。」

 70年代初頭が「自己批判」を強制していた時代であったということが、これでわかり
ます。