戦後と戦前の間

 先の大戦が敗戦で終わってから69年となります。当方は戦争が終わってから5年ほど
で生まれました。生まれた頃の記憶はもちろんありませんが、なんとなく敗戦後で高度
成長となる前の日本の記憶はあります。当方のような団塊といわれる世代の終わりの
ほうでさえ、直接に戦争といえば、大戦ではなく、朝鮮戦争でもなく、ベトナム戦争
以降のものくらいしか浮かんできません。
 日本が朝鮮戦争とそれ以降の冷戦時代をうまくやりすごすことで、高度成長を図った
というのは事実でありますでしょうから、そのために犠牲を払った国家から虫がよすぎ
るといわれるのは覚悟のうえでしょうよ。
 もはや戦後ではないといわれたのはずいぶんと昔のことになります。これは首都が
焦土となった終戦後からの復興をとげたということを表現したものでありますが、
この時代に「もはや戦後ではない」と発すれば、これは戦前の時代の雰囲気を感じる
という意味に受け取られるようです。
 このところ手にしているみすず書房の編集者であられた小尾俊人さんの本を見ます
とますます、そのように思うことであります。
 丸山真男さんの著書「戦中と戦後の間」を刊行し、自らの著書に「昨日と明日の間」
と名付けた小尾さんが、いまに編集をするとすれば、心ならずも「戦後と戦前の間に」
となるのでしょうか。
 みすず書房、小尾さんといえば現代史資料であります。

現代史資料 2 ゾルゲ事件 2

現代史資料 2 ゾルゲ事件 2

 小尾さんの「昨日と明日の間」には、次のようにありました。
「私はかって『現代史資料』の一部として、『関東大震災朝鮮人』『朝鮮』六巻を
出版したとき、民族としての日本人、国家としての日本の行った行為について書いた
ことがある。もし日本人が、このような犯罪をかりに何時か忘れることがあるとすれ
ば、そのときこそ、真に日本人の集団的責任に帰せられるだろう、と。
これはラアトブルフがドイツの強制収容序について述べたことへの感銘に由来してい
る。
 いま私は、1919年のいわゆる三一独立運動の宣言書、要義書を読み直している。
それらは精神のこもった、説得力のある、すばらしい文章なのである。朝鮮民族代表
のこの言論の行為にたいし、日本は暴力でこたえたのだった。『戦車と自由』の
恥ずべき日本版であった。
 これらの文書は日本の高校の社会科教育の材料として最上のものではないかと私は
思っているい。過去のマイナス体験を直視し、理解し、内面化することによって、
はじめて精神は自由を獲得しうるのだ。悲しむ能力の開発は、人間の知恵のもとと
なるだろう。そればかりか、この文書には、比較文明の見地からもきわめて有益な
見解が含まれているのである。」
 1990年に発表された文章であります。
 この時代に、「高校の社会科教材」として「三一独立運動の宣言書」を取り上げる
ことがありましたら、その教師は即刻に処分されそうであります。