8月15日の新聞に「敗戦日記」渡辺一夫 博文館新社の広告がでて
おりました。太平洋戦争が終わってから60年以上にもなるのですから、
戦争体験があるひとは、どんどんと少なくなってきて、戦争のことを
知りたかったら、信頼される書物などを読むしかなくなっています。
博文館は日記帳の版元でありますから、渡辺一夫さんのような立派な
日記を残したら、後世にも有益なことと訴えるのであります。
この本の帯には、45年6月6日の日記から引用された文章がのっています。
「 この小さなノートを残さねばならない。あらゆる日本人に読んでもらわ
ねばならない。この国と人間を愛し、この国のありかたを恥じる一人の
若い男が、この危機にあってどんな気持ちでいきたかが、これを読めば
わかるからだ。」
戦時下にあって、「沖縄諸島における我が軍の抵抗、依然続く。
しかし遅かれ早かれ敗北するだろう。沖縄制圧後の米軍がどうでるか、
我々はどうするか?」なんてことを口にした瞬間に、特高に連行される
ことになったでしょう。渡辺さんがそうならずにすんだのは、この思いを
ひそかにノートにフランス語で綴っていたからでありましょう。
この敗戦日記というノートは、45年8月18日をもっておえています。
「 母国語で、思ったことを何か書く歓び。始めよう。
14日登校。和平の噂きく。出教授『もう死ぬ薬要らぬよ』という。」
敗戦日記は、このように書かれて終わり、同じく18日からは日本語での
「続 敗戦日記」が始まるのでした。
「 苦難の新日本の発足を
懊悩と危惧をもって迎えつつ
記録を留めることにする。
新日本よ、正しくあれ、強くあれ、
美しくあれ、」
このように冒頭で宣言されてから、18日の日記となります。
「 壕中におさめて置いた書物を全部出した。十分に新聞紙で包み、それを
カーテンでくるんだのは、かびの生え方も少ないようであった。
約3ヶ月間地下に逢った本との再会うれしかった。リットレ、ラルース共に
坐右に黙々としている。美しい智性の姿だ。僕の余生は、この智性に助け
られつつ国のために尽くすことだ。」
渡辺一夫さんは、1901年生まれでありますから、敗戦時には45歳となって
いました。太平洋戦争は15年戦争ともいわれておりますし、治安維持のために
言論の自由がないなかでの30代をすごしているのですから、よほど生きにくい
ことであったでしょう。この時代の渡辺一夫さんをモデルに、加藤周一が
「ある晴れた日に」という小説を書いているのでした。