わたしと筑摩書房4 

 山口昌男さんが、筑摩書房の編集者であった「原田奈翁雄」さんについての文章
は、「人類学思考」(せりか書房)に収録されているのですが、これの初出は筑摩
書房からでている「渡辺一夫著作集」の月報でありました。
「 私は贋学生だったことがある。時は1950年、もう時効にかかっている筈で
ある。官立大学受験に失敗したが由美さんなる幼馴染みがいたわけでもないので、
予備校というものに行く気にもなれず、一体何をしていたのかと今考えると、絵の
展覧会と古本屋廻りに時間をつぶしていたことのことである。
 私の北海道の中学時代の師で、今は当筑摩書房で『人間として』の編集に水を得
た魚のごとく腕をふるって居られるが、そのころ、長い放浪の旅から戻って、明治
大学文学部仏文科に復学していた(筈である)原田奈翁雄氏がある日『君、そんな
に仕事ももたずぶらぶらしていると碌なものにならないよ。仏文科で渡辺一夫先生
の講義があるから聴講に来ないか。』というので、『渡辺先生というのは何の先生
ですか』などと可憐なことを言いつつ原田氏の後について、文化学院の向かいに
あった木造二階建ての文学部の校舎に足を踏み入れたのが、多分、親の期待とおり
あわよくば、官僚のはしくれになって、権力の末端のおこぼれ頂戴で、生涯を仮眠
の状態ですごそうと思っていた少年のつまづきのはじめかも知れない。とにかく
ふりかえって、『碌なもの』になるまいと心変わりを遂げたのは、あの頃のことで
あろうと思われるのである。」
 この文章は、このあと、渡辺先生の授業は60人の登録があるのに、常時3人し
か学生が来ていなくて、うち山口昌男さんともう一人は贋学生で、正規の学生は
原田さん一人であったとあります。渡辺一夫著作集によせた文章ですから、これは
次のように続きます。
「 そもそも『人間の尊厳について』という書物を残したピコ・デラ・ミランドーラ
なる人物についてはじめて知ったのがこの教室であった。・・・
 パスカルの恩寵論について、原田氏の質問に丁寧に答えて居られた先生の説明は、
キャパシティの大きいとは言えない私の記憶にいまでも鮮やかに焼きついている。」

 山口昌男さんが育ったのは美幌町というところですが、中学校は網走に通ってい
ました。原田奈翁雄さんとであったのも網走となるのでしょう。山口さんが原田さん
に言及している文章は、残念ながら他にはまだチェックできておりません。
 せっかくですから、山口さんのふるさと自慢で、本日にふさわしい話題のものを引
用することにしましょう。
「私の育った美幌町は南西の方にかけて原始林の連なる山脈が重なり、秋の野生の
葡萄狩り(特に好きな訳ではないが)に行っても、冬山にスキーに行ってもその先に
連なる山の背の向こうにある世界に憧れた。小学校3年の頃、女満別村が日蝕の国際
観測地になったため、或る夏突如として世界中の天文学者が集ってこの小さな村を
埋めた。私は親戚の家に泊まりこみでこの異邦人の群れを観測にでかけた。」
 国内で観測された皆既日食は、「1963年7月21日の北海道東部で見られた皆既日食
以来、実に46年ぶりです。」 とあります。山口さんが小学3年頃は、1941年
くらいのことですが、そのころに皆既日食が北海道で観測という新聞記事がスクラッ
プされていたのを見た記憶があります。この時代は、ほぼ戦時下に準じた体制となっ
ていましたので、海外からの観測隊の行動に縛りがかかっていたのでしょう。さて、
この日蝕は正しくはいつのことでありましょう。