廃墟から始まる

 「それは1945年8月の廃墟から始まった。」と帯にあったのは、宮内嘉久
「建築ジャーナリズム無頼」中公文庫でありますが、45年の廃墟の風景について
記した作品というと、けっこうたくさんあるはずです。戦後まもなくまでは、
日本のあちこちにこうした風景がみられたのでしょう。
 小生がすんでいたのはいなかでありますし、ほとんど空襲にも縁がなかったので、
こうした廃墟をまのあたりにしたという記憶はありません。小生にとって戦後の
風景というと傷痍軍人のかたが、大きな街の中心部で、アコーディオンをひきなが
ら、歌をうたって募金をしていたのをみかけたことくらいでしょうか。戦中派という
人たちにとって、戦時下をどのように過ごしたかというのは、相当に大きなことで
あるようです。それは動員で軍需工場で働くことであり、またそれよりも小さな
人にとっては疎開をして田舎暮らしを体験することでありました。
(関係なしですが、なんとなく、中国の文化大革命というのは、戦時下に近い国家
体制であったという感じがします。)
 小生のひいきの文学者で長谷川四郎さんは、召集にあって満州からソ連との国境
近くで配置につくのでした。小沢信男さんは、旧制の小学から中学生として過ごして
いました。
「 神田駅のホームに降りたつやいなや、ぼくらはおもわず嘆声を発した。・・
 ホームのへりにたったぼくらの足もとから、遠く荒川の方角へ、眼路のとどくかぎり
一面の焼け野原で、まるで地球の裏側までこの焼け跡は続いているようだった。
 ところどころにほそい煙突や四角なビルがぼちぼち残っているのは、荒れはてた
港の崩れた防波堤や放置されたブイを見るようで、ぼくは一瞬、潮の香をかぐ思いが
した。そういえば、両手をひろげたヤモンも海岸で日の出を迎える時に恰好にそっくりだ。
 ぼくは東京がこんなに広いとは思わなかった。矩形や菱形や、さまざまな形の小さな
桃色の板をつなぎあわせた組み絵のような東京地図が、ぼくの頭の中でみるみる一枚の
ゴム布れとなってとめどもなくのびひろがってゆくらしかった。」
 小沢信男さんの「徽章と靴」(東京落日譜)より