傍観者からの手紙

 月刊「みすず」では、もう何年も「傍観者からの手紙」というタイトルで外岡秀俊さんの
エッセイが連載されています。この外岡さんは、朝日新聞東京本社編集局長という肩書きを
お持ちで、たいへん著名な新聞記者であります。
 学生のころに文学賞の新人賞をうけて、一躍有名になったのですが、学校を終えてからは
ふつうの新聞記者になって、とくに文化を語るとかせずに、ジャーナリストとして活躍を
されています。記者としての経験から「情報のさばき方」(朝日新書)をだして、これは
なかなか参考になりました。
 この「傍観者からの手紙」というのは、時局的な話題ではなくて、その時々の文化的な
話題をとりあげての連載となりますが、先月は「逝きし世の面影」というタイトルで渡辺京二
さんの著作をとりあげています。
「 そうした古い日本の特性が、近代化によって決定的に失われ、滅びたからだと答えます。
 私たちにとって在りし日の彼らの姿が現実離れしているように見えるのは、私たちが彼らの
格調や線連鎖、けなげさを失ってしまったからだ、と。このきっぱりとした見方に、書名を
『逝きし世』とさだめた著者の潔さが感じられます。・・・
 著者の姿勢は、すでに失われた世界を根拠地に近代の虚栄を撃つことにあり、狙撃者の
胸中に宿るのは、ほのぼのとした懐古の情ではなく、むしろ過去にすがったり、過ぎた日々を
蘇らせることへの断念と悲哀のように思えます。過去を美化してはならない。私たちは二度と
喪ったものを取り戻せない。著者の出発点にあるのは、そうした諦観ではないでしょうか。
・・つまり『逝きし世』とは、近代化や西欧化によって失われた日本の『生活総体のありよう』を
意味しています。」

 外岡さんが文学デビューした作品は、当時に話題となって、小生も読んだのですが、なんと
なく違和感を感じて、感心しなかった思いがあります。公式には、それ以来作品を発表して
いないはずですが、一定の年齢になれば、その後自らの才能に封印した感があるのですが、
その封印をといて、また小説を発表することになるのでしょうか。
 そのむかしの筑摩書房の社長でありました「竹之内静雄」さんは、学生のころに野間宏
富士正晴と同人誌をやっていて、作品を残していますが、編集者となってからは作品を発表
せずに、退職後に数十年ぶりでの作品を発表しました。
 外岡さんも、そろそろ、そのような時期が到来したのかと思っています。小説ばかりが文筆家と
してのフィールドではないのですが、外岡さんが、あの若書きの一作だけで、歴史にのこるのは、
すこし物足りないことではないでしょうか。