「枕頭の書」福永武彦

 福永武彦さんの小説は、最近読まれているのでしょうか。小生は、福永武彦さんの
ものといえば、脇道にそれた推理小説とか、すこしはミステリーの香りがする
「死の島」なんてものを読んだほかは、「玩草亭百花譜」とか、堀辰雄についての
エッセイ、そして読書についてのものが好みで、彼が一番力をそそいだであろう
小生などは、まったく読めていないのでありました。
 代表作にはまったく親しんでいないのに、福永に親しい物を感じるのは、
読書エッセイなどに福永らしさを感じるからでありましょう。(それにしても、
「1946年文学的考察」をともに著した、加藤周一中村真一郎、そして
福永というトリオは、戦後でもっとも強力なトリオであるかもしれません。
その10年後くらいに、篠田一士丸谷才一、中山公男の三人で、秩序という
雑誌を舞台に、同じようなしかけのエッセイを連載していましたが、これは
本としてまとまらなかったように思います。)
 小説家としてよりも、本の紹介者として親近感を感じるという点では、福永の
息子にあたる池澤夏樹さんも同じであります。北海道で幼少のころに一緒に暮らした
くらいで、あとは別れてしまったはずですが、池澤さんが小生にとっては「読書癖」の
シリーズに代表される書評の名人としますと、ずいぶんとこの親子は似ているように
思います。
 本日は、福永武彦「枕頭の書」新潮社にはいっている「本を愉しむ」という文章の
冒頭の部分を引用します。これを読みますと、本好きの方々は、みなさん一様に
頷かれることと思います。
「 本を愉しむには色々あって、必ずしも読むばかりが能ではない。珍しい本を
買ったときは嬉しいものだが、但し安く買うのでなければ愉しみとは言えまい。
本がだんだんにたまるのも愉快だし、、読まない本をいたずらに積んでおくのでも、
当人にとってはちっとも恥ではない。・・・・」

 福永がそういっているからといって、読まない本を小生がせっせと購入して
あちこちに本の山を築くことが、家族に容認されるものではありません。
 そういえば、先日のETVでみた吉田秀和さんの自宅は、ほとんどカメラに蔵書が
うつらなくて、ずいぶんとすきっとしていました。そういえば、吉田秀和さんの
文章には、こんなくだりがあったっけ。
「私も、実は本をたくさんおいておくのが大嫌いで、少したまりだすと、すぐ整理
したくなる。重苦しくて嫌なのである。そのために始終ひどく不便な思いをするの
だが、この気持ちだけは変えられない。・・とにかく一カ所に重苦しく、うずたかく
本が積み重なりあい、立ち並ぶ姿をなるべくみないですむように心がけている。
いま考えてみると、それは、ひょっとしたら、このとき吉田一穂さんの部屋でごく
数冊の本がおいてある横長の本棚を一目みた時に、『ああ美しい・・』と思った、
そのときの印象に、ずっと支配されているのかもしれない。」
「ソロモンの歌」から「吉田一穂のこと」より。

 坪内さんのような本の置き方をしているひとの部屋をみて、これを美しいなんて
感じで、それに支配されたらどんなことになるのでしょうね。