本日の朝日新聞夕刊には、加藤周一さんの「夕陽妄語」がのっているのですが、
その同じページには、「夕陽妄語」「音楽展望」「文芸時評」「論壇時評」
「美の現在」は朝刊の文化面で掲載しますとありました。
これまで、夕刊を夕刊たらしめていた文化関係の連載がすべて朝刊に引っ越しを
するというのは、なぜでありましょうか。朝夕刊のセット販売のために、魅力ある
夕刊紙面作りというのは欠くことができないはずですが、夕刊の購読をやめる人が
それだけ多いということでしょうか。
加藤周一さんも、吉田秀和さんも、ともに高齢でありますから、いつまでも
彼らに頼っていることはできないということですか。それにしても、小生にとっては、
文化的な情報というのは、朝日夕刊からえていた時期が長くて、それだけに淋しい
感じがありますね。
文芸時評も「石川淳」「吉田健一」「丸谷才一」「井上ひさし」と多彩な人たちが
担当して、それぞれの担当分は、単行本となっているのでした。この文芸批評は、
それまで新聞の文芸批評の定番でありました「平野謙」スタイルを打破して、ほとんど
文芸誌の掲載作品をとりあげず、単行本だけで勝負をする手法は、国内では石川淳が
はじめたものでありますが、たいへん新しい試みであったのでした。
石川淳のものは「文林通言」(中央公論社)にまとめられていますが、昭和44年
12月(1969年)に連載がはじまって、その一回目では次のように書いています。
「文芸時評というものは、わたしはまだ一度も書いたことがなく、読んでみたことすら
じつはめったにない。それを今からはじめようとするのはただ風のふきまわしという
ばかり。毎月の雑誌に発表される作品はうんざりするほど数が多いのだから、とても
一つ一つつきあってはいられない。また雑誌体制べったりでは、どうも鼻がつかえて、
今日の文芸に窮屈な思いをさせるのではないか。それならば、わたしをもふくめて
読者の側としては、新聞にでた広告をざっと見渡しただけで、毎月の佳作駄作を
次号の分までのこらず読んでしまったような気になるという存外親切な便法がある。
便法ときに正解である。わたしはこの読者の正解から出発する。そして雑誌とつかず
離れず、事の雅俗を問わず、自然のながれのままに、すなわち勝手気ままになにくれと
なく書くことにする。前置きはこれだけである。」( 原文は旧字旧かな)
書き写していても、きもちのよくなるような啖呵でありますが、けっして今の
文芸誌が、このときよりも充実しているなんてことはないとおもうのですが。