別格の書籍

 いまから35年ほど前に、別格の本というのがありました。
値段は高い、よほど学識がなくては読み解くことはできない、見栄をはるために
購入しても、とうてい恥ずかしい思いしかしないというもので、大学生協
書籍部でも手の届かないような場所に、神のようにまつられていました。
 それがE・R・クルティウスの「ヨーロッパ文学とラテン中世」でありました。
みすず書房、71年の刊行です。とんでもなく大部のもので、書架の高いところに
ささっていると、片手で引き出すことはできないと思えたのです。ぱらぱらと
なかをのぞいても、ほとんどなじみのない世界についての記述が展開されて
いました。

 クルティウスは、「この本を書いたとき、くりかえし当面した問題は、
ギリシャの修辞学がアラビアの文学に影響を与えたのではないか?ということで
あった。千一夜物語中の多くのものとイスパニア・アラビアの詩やスペインの詩の
多くのものが、そのことを示唆しているように思われたのである。ところが、
ドイツのイスラム学は、そうしたことがらにめったに言及していなかったし、
言及してもほんの通りすがりにでしかなかった。」と書いているのですが、
比較文学の研究者であるか、よほどの好事家でなくては、手が出ない話題で
あります。
 クルティウスの顔写真が、当時のみすずの広告にのっていたのですが、
万巻の書を背景に、机にひじをついて、たばこをはさめた指が額にかかって
いるのですが、あたまと額のさかいが不明確ですが、眉の上のところに
みごとはしわがよっているのでした。いかにも智恵がつまっていそうな、
大きな頭と、指によって生まれたものでありますが、ほとんど大脳の皺が
頭部面に表出しているように見えるのでした。
 このひとは、きっとすごいのだろうなと思いつついたところに刊行された
のが「読書日記」73年でありました。もともとは、「みすず」に連載されて
いたものをまとめて一冊にしたのですが、とにかく、これがワールドクラスの
大批評家であるかと、ちっともわからないのに、ありがたく手にとったもの
です。 
 この「読書日記」は、何月何日になにを読んだというものではなく、渡辺
一夫さんであれば「偶感集」と名付けるものと同じでありまして、いろいろな
ジャンルにおける考えるヒント集の趣であります。
 古書収集にはまっているひとに一番うける逸話は、6ページにある次のこと
であります。
「 わたしがバルザックについての本を書くとき、その同時代人によって
かれがどう見られていたかという証言を集めていた。わたしはゲーテの日記を
てにいれたいと思っていた。周知のとおり、この日記の完全な形で収めている
のは、ヴァイマル版しかなかった。そのテキストを手にすることは困難だった。
 ところが、一本のソーセージを買ったとき、それがほご紙にくるまれていたの
だが、なんと、それはヴァイマル版の1ボーゲンで、まさに探し求めていた
テキストを含んでいたのである。精神がひじょうに緊張しているときには、
そのための努力をしなくても、求めるものが与えられる。わたしはこういう経験を
なんども確認したが、これを学問的に研究したもののあることを知らない。」

 長年にわたって、古書をさがしていたら、信じられないような幸運に恵まれる
ことはあると思いますが、それでもそういうことはたびたびはありませんし、
「精神がひじょうにきんちょうしていた」状態で、古本やにいこうものなら、
せどりと間違えられて、警戒され、逆に集中できないことになるのではないで
しょうか。

 この「読書日記」の翻訳は生松敬三さんによるものですが、この時代に
生松さんの翻訳に世話になったひとは多いとおもうのですが、最近は話題に
なることもすくなくて残念なことです。亡くなってどのくらいになるのか
ですが、生松さんの「書物渉歴」みすず書房は間違いなく、いまでもおすすめで
ありますがね。
 最近の古本ブームが、このような教養主義的なところに、なかなか近づいて
こないのが、大変残念なことであります。