読みにくい本

 本日に、小生の手元に届いた「本の雑誌」4月号の津野海太郎さんの
サブカルチュア創世記」をみていましたら、67年5月に刊行された
植草甚一の「ジャズの前衛たちと黒人たち」を編集していた当時のことを
書いておりました。その終わりのところには、次のようにありです。
「 ひさしぶりにこの本をひらいてみて、あきれた。四六版で430ページ。
それがすべて小さな8ポイント活字、52字、21行の一段組で、ぎっしり
組んである。いやはや、こんなに読みにくい本がよくもあれほど売れたものだ。
 でも、いまはあきれるしかないけれど、むかしの岩波文庫新潮文庫
みればわかるようにむしろ当時はこれが普通であった。」
 そうですよね、むかしの本は、活字がぎっしりとつまっていて、ページを
開くと黒っぽい印象を受けたのですが、最近のはすかすかで空白が目立つの
ですが、これって詰めたら、もっと薄くて安くなるのではないかと思わせる
のでした。津野さんも、この文章で、「大きめの活字がばらばら組んである
ような本を買うと、なんとなく損をしたような気がする。」と書いています。

 昨日に話題にした、久野収さんのおすすめブックリストは76年に刊行され
三一新書「読書のなかの思想」というものにおさめられているのですが、
この新書は206ページと、ページ数は新書のものでありますが、これに
つまっている活字数たるや、最近の単行本であれば、ゆうにこの倍のページに
なるだろうと思うほどです。とにかく、お買い得の一冊ですが、問題は、
再読しようと思って手にとると、老眼ではほとんど文字の識別ができない
ことであります。
 今回に、このブログを書くために、久野さんの「読書のなかの思想」を手に
して、活字が小さく、眼が痛いと思いながらも、このような文章があったのだと
あらたあめて発見をするのでした。
「書誌学、文献学、伝記といった研究ジャンルは、歴史の補助学どころか、
基礎学である。基礎のしっかりしていない建築は、どれほど外観がはなやかでも、
あまり長持ちしないことはたしかである。
 ところが、これらの研究ジャンルが不当に軽視される日本では、森銑三さんの
仕事も、ともすれば、一般的には軽視されやすい。
私が場違いを充分に承知の上で、あえて森さんの仕事への賛辞を書こうとするのも、
そのような事情がある上に、私は森さんが師事した狩野亨吉先生の晩年のほとんど
ただ一人の弟子であったからである。」(森銑三先生の仕事・著作集月報)
 「本の雑誌」の坪内祐三さんの読書日記の、はじまりには、森銑三著作集の
端本を購入する話がのっておりまして、本日のメールは、本の雑誌に触発されて
話題を展開したのでありました。