渡辺一夫「装幀・画戯」集成

 渡辺一夫さんはフランス文学者ですが、一番有名な仕事はラブレー
「ガルカンチュアとパンタグリュエル」の翻訳です。
太平洋戦争のさなかに、この作品の翻訳作業を続けて、本が刷り上がった
とたんに空爆のために、灰燼にきするというようなことになりながらも、
ずいぶんな年数をかけて第五之書までを翻訳、刊行したのでした。
 いっぱんにこの本が入手できるようになったのは、岩波文庫にはいって
からでありますが、これが文庫となって喝采をあげた人も多かったでしょう。
小生は、古い白水社版で何冊か確保しましたが、時代が新しくなってから
でたものほど、雰囲気がなくなっているのは、どうしてでしょう。
 この第一之書は、昭和16年冬にあとがきが書かれて、刊行されたのが
昭和18年1月になっていますから、そうとうに印刷に手こずったので
ありましょう。白水社というのは、ほんとに立派な版元でありましたこと。
 この渡辺一夫さんは、大江健三郎の師匠ということになっていまして、
大江さんの著作を通じて、渡辺さんのことを知った人がほとんどでしょう。
 この渡辺さんは、装幀をやっていまして、自分のものとか仏文関係者の
ものをしていますが、渋いところでは、筑摩書房発足時の中野重治「斉藤
茂吉ノート」などもやっているのでした。本日の午後に、おしいれを片づけて
いて、この装幀・画戯集成をみつけたのですが、あらためて見て、この本も
渡辺装幀であったかと思ったは、加藤周一「称心独語」でした。
 渡辺一夫装幀本は、数もすくないので、あつめようと思うと、できそうな
気持ちになるのですが、こっちのほうは、ずいぶんと値段がたかそうな
感じです。 
 この本には、絵画と装幀のほかにも、いろいろな作品がのっているのですが、
奥さんのためにつくって彩色した「パン発酵箱」というのがありまして、
これがとっても愛情あふれるものでけっこうなのでした。このような作品は、
ご本人が生きているうちは、決して日の目を見ることはなかったでしょうから、
ご本人がなくなりますと、このような隠れた作品を眼にすることできるので
した。
 第一之書のあとがきには、次のようにあります。
「本書は糟糠の妻に捧げる。これは別に今まで訳者が妻に糟や糠のみを喰わせて
この訳業を完成させたというような悲壮めいた事実の告白では決してない。
少なくとも現在まで訳者としても、かくのごとき悲壮な事実を妻に強いた覚えは
まったくない。
 しかし、ラブレーの全訳は前途遼遠だし、その間いかなる一身上の造次てんぱい
に逢着せぬとも限らず、あるいは妻にも糟や糠を食べてもらわねばならぬことに
なるかも測り知れない。覚悟していてくれという意味である。」
 
 普通よりは恵まれた家庭に育ったのではあるでしょうが、このように地味な
翻訳を長年続けるというのは、スポンサーがついていないと、とてもたいへんで
あったということでしょう。