なにが粋かよ(斉藤龍鳳のこと)

 石堂淑朗という人は、大島渚と一緒に活動をしていた
脚本家であります。けんか早い人でありまして、最後は
大島渚ともけんか別れをしたのではなかったかです。
たぶん、小説家をめざしていたはずですが、結局は小説家には
なりきれなかったように思います。
 その石堂さんが、ちくまに「往事茫々老人多難日暮日記」と
いうのを連載しています。数ヶ月前には、ブローティガン
吉行淳之介にぞっこんで、吉行作品を映画化するときに、作品
世界が、イメージが違うとクレームで大変でしたと興味ふかい
話を書いていました。
 3月号の「ちくま」では斉藤龍鳳をとりあげています。
いまではほとんど話題にもならないのでしょうが、斉藤龍鳳
いう人は映画評論家です。人格がおかしくなっているのではないか
思うほど分裂しているのですが、これはもって生まれた純なる精神に
よるものでしょうか。
 石堂は、この斉藤と映画芸術の編集者であった小川徹の二人に
ついて、以下のように書いています。
 「小川・斉藤ともに人生の前半は時事通信内外タイムス
 失礼ながら闇屋なメディアからの映画評論家転向とキャリアが
にていたせいか、この二人は実に仲が良かったのである。」
 龍鳳は山谷騒動に紛れこんで逮捕され、そのごはML派の
活動かとして晩年をおくっていたのです。
 この活動もうまくいかなくなって大阪に逃げて隠れるので
ありますが、そこもでていかざるの得なくなるのでした。
「 龍鳳はその後しばらくして南伊豆の某精神病院に入院、電気
ショック療法が裏目にでたか、廃人同様になって、奥さんとは
別の女と同棲していて、死後発見された。」
 この龍鳳さんには、「なにが粋かよ」創樹社という遺著があります。
1972年2千円であります。この本の年譜が秀逸です。

 69年にはこのようにあります。
「 再び文筆業という虚業に立ち戻ることもできず、といった
八方ふさがりの状態で、生活の不安を一時的にでも避けるためか、
睡眠薬精神安定剤のたぐいを多量に乱用するようになっていた。
石堂淑朗長部日出雄ら大型新人の登場に刺激されて、小説を
書こうとこころざすが果たせず、11月中旬、曲折の末、南伊豆
病院に入院、薬中毒をたちきろうと試みる。」
 71年3月25日になくなるのですが、
「中野区大和町のアパートでガス中毒による心臓ショック死で死す。
枕元にアトラキシン、新グレランなどの空びんがあった。
 コーラが飲みたい、今日はよく勉強したという走り書き以外は、
遺書らしきものはなし。享年43歳。」

 この龍鳳さんには、69年5月4日に長女がうまれているので
すが、この娘さんの名前は「みさお」さんと名付けられているの
でした。このように自堕落な生活をしても、娘にはみさお
命名する男親の気持ちに感動するとともに、バカ野郎といいたい
気持ちを抑えることができません。