二十歳にして心朽ちたり

 とんでもなく早熟で神童とよばれた人が、成人になってからを
どのように過ごすのかが気になるところです。
 二十歳くらいで亡くなったり、活動をやめてしまった人は
伝説の存在となりますが、同じ路線でやっていますと、過去の
栄光が重くて、少々の結果をのこしても、さっぱりと評価は
あがらずで、二十歳すぎればただの人といわれてしまったり
します。
 戦後まもなくの時代には、共産党員の子弟で、小学生である
けれど「資本論」を読破したなんて記事が、当時の「アカハタ」に
のっていたそうであります。小学生が資本論を読んで理解している
のかどうかを、しかるべき人がチェックしたのでしょうが、
このことが意味があったのかどうかは、よくわからないことです。
これは党員であった父親が熱心であったからとしか思えないですが、
これは真木悠介という筆名で著作を行っている学者の、幼いころの
逸話であります。
 四方田犬彦の文章を読んでいても、これを読んでいたのは、
何歳の時のことかなと思わず確認したくなります。小生のほうが
いくつか年上でありますが、都会といなかという違いはあるものの、
同じような時代を生きていて、見えているものがずいぶんと異なって
いることです。
 ハイスクール1968を読みますと、つくづく出来が違うことを
思い知らされます。この本のなかで、当時、高校生であった四方田が
これは出来が違うと思ったという詩人「帷子耀」を訪れるところが
あります。高校一年で「現代詩手帖」の投稿で有名になっていた
帷子さんですが、当時、赤瀬川原平による表紙は、話題になっていて、
毎月手にしていて、高校生詩人の存在は承知していましたが、この
人に嫉妬を感じることはまったくなかったことです。
 たぶん、この帷子さんは、四方田世代の先頭ランナーであって、
ほかの神童たちは、彼の存在を意識しながら、追いかけていたので
ありましょう。
 「二十歳にして心朽ちたり」は雑誌「世代」という綺羅星のごとく
スターを輩出したグループにあって、普通とはいえないサラリーマンで
終わった人を取り上げた本のタイトルから借りたのでした。
サラリーマンで終わるというところだけが、小生と共通であります。