ちょっと脇道に

 昨日に瀬川昌久さんの「ジャズで踊って」を話題にしたときに、それに登場する

永井智子さんという「エノケン劇団」に所属していた歌い手さんに驚いたと記しま

した。

 これを見てくれた某君より本日に連絡がありまして、永井智子は永井荷風の日乗

にも登場することで、そんなことで川本三郎さんの本でも言及されています。

是非とも「断腸亭日乗」の昭和二十年をお読みくださいとありました。

 それは知らなかったことです。昨日に永井路子さんを検索してみましたら、その

母親として永井智子さんの名前があがっていて、永井智子さんにもウィキがたって

いることを知りました。ちらっとのぞいてみたら、荷風が岡山に疎開したときに、

その段取りをしたのが、永井智子さんと当時の連れ合いであることがわかりました。

 その連れ合いさんは、1938年に永井荷風とオペラ「葛飾情話」を作って、智子

さんはその主役を演じたのですから、荷風と智子さんの接点は、ここらにあるので

しょう。

 そんなわけで古くに確保した全集に入っている「断腸亭日乗」を引っ張りだして

くることにです。(岩波の全集24巻に、昭和20年はありました。)

  連れ合いさんである菅原明朗さんは、かなりの頻度で登場するのですが、荷風

焼け出されてからは、その落ち着き先を見つけるために世話を焼くことになります。

結局は播州明石に疎開することになりです。

 昭和20年6月1日の日乗に次のようにありました。

「晴、菅原氏曰く埼玉県志木町の農家にも行きがたくなりたれば今は其故郷なる播州

明石の家に行くよりほかに為すべき道なしとて頻に同行を勧めらる、熟慮して後遂に

意を決して氏の厚誼にすがりて関西にさすらひ行くことなしぬ、早朝氏と共に渋谷駅

停車場に至り罹災者乗車券なるものを得むとしたけれど成らず、空しく宅氏の家にか

へる」

 結局、翌日に乗車券を入手でき、午後の便で明石に向かうことになって、それから

終戦後の8月30日まで明石から岡山で暮らすことになりです。

これを見ていますと、7月頃までは菅原夫妻のように記されているのですが、

途中からS氏夫婦となりますので、なにかあったのかなと思ったりしました。

 9月4日には、次のようにありです。

「余が旧友の中には菅原明朗の人物について喜ばざるもの少なからず、余が

菅原と共に旅窓に日を送ることを憂慮し、五叟に忠告すること再三に及びし

由なり、菅原氏の陰爵寡言にして其人物の解しかだきは余の早くより知りし

所、また永井智子との関係その他の事は他日記述すべき機会あるべし」

 「他日記述すべき機会あるべし」とあるのですが、本日のところでは、記述を

見出すことはできずです。

 それに先立っての7月29日日曜日に、次のようにありました。

「同行のS君夫婦連日口論をなし喧とう(馬に登)堪えがたし、婦の罵るをきく

に、休戦になる時を待ち別れる約束をなし共に西行せしなりと、男の言ふをきく

に狂婦の言語は毎日変化す、一も信用すべきものなし、唯言はして置けばよきなり

と、笑ふべし、厭ふ可し」

 とありましたので、なかなかお二人ともたいへんな人であったようです。

「ジャズで踊って」から脇道にそれることですが、こういう読書が楽しいことで

あります。

断腸亭日乗 全7巻セット

文庫 ジャズで踊って: 舶来音楽芸能史 完全版 (草思社文庫 せ 2-1)