小沢信男著作 132

 今年3月の大震災以降、節電が強調されて都会の夜は暗くなったといわれますが、
それでも、当方が住んでいる田舎町よりもずっと夜は明るいようです。
都会の夜が暗くなるのは、どういう時であったろうかと思って小沢さんの「東京百景」
を見てみましたら、「昭和改元の日 そして平成改元の日」という文章に、次のように
ありました。
「そこでその一月七日の夕刻には、永井荷風のひそみにならって銀座へ参りました。
銀座街頭は、縦横十文字の大雑踏でした。ネオン類は看板以外は一切消え、垂れ幕など
もすべてはずし、小気味よく暗い銀座八丁の屋根の上を、ヘリコプターが何機も舞って
おりました。電光ニュースは改元つげ、路上の号外は奪い合いとなり、さすがに常の夜
には似ず、むしろ精進明けのお祭のよう。店々は軒並み慶弔の貼紙はりつつ盛業中で、
自粛閉店は数えるほど。亡き天皇の肖像写真を飾ったウィンドはそれこそ煌々を競って
いて、バーゲンで大混雑のブティックもあり、店員に敬弔大売り出しかとたずねると、
たまたまぶつかっただけと当惑顔でした。」
 この文章の書き出しのところは、永井荷風の「断腸亭日乗」の大正十五年十二月
二十五日の項が引用されています。ちょうど大正天皇崩御のときの、永井荷風の日録
になりますが、小沢さんが荷風のひそみにならってというのは、改元のときの街の
様子を伝えていることによります。
 ちょうど昭和から平成へとうつるときに、当方は東京勤務をしていまして、この日の
朝からアパートにいてもヘリコプターの飛ぶ音が聞こえていたのが、記憶に残っていま
す。荷風のひそみにならって銀座にでることなど、思いもつきませんでした。
(ちなみに東京に住んでいた三年間で、アパートにいてヘリコプターが飛来して、これ
はなんだろうと思った一番は、同じ区内であった松田聖子さんの結婚式の取材のための
ヘリで、一月七日はヘリコプターの音を聞いただけで、ただならぬことが起こったこと
を感じました。)
 前に引用した小沢さんの文章のつづきです。
「日頃の夜空を焦がすネオンが消えても、一向になにも困らないのですね。こういう
自粛はぜひ続けてもらいたい。日本国中で、せめて喪の一年間は。それで困るのは
広告会社と電力会社ぐらいでしょう。消費のための消費の促進と、そのための原発
林立というような循環から、多少は抜け出すきっかけにならないか。そんなことを
思いつつ、スエヒロに到りビールを酌み晩餐をなして帰宅しました。」
 そんなことを思いつつといいながら、「ビールと晩餐」が荷風のひそみであります。
小沢さんの文章の冒頭におかれた荷風の日乗には、次の文がありです。
「昨日深更聖上崩御の公報出て、銀座通の商舗今朝より休業。太訝は夕刻より戸を
閉したるにより、お慶邦枝子に逢はむとて来りしなりと云ふ。余昨夜より家を出でず、
又新聞を見ざるを以て、ここに始めて諒闇の事を知る。山形ホテル食堂に到り葡萄酒を
酌み晩餐をなす。枕上柳北の新誌第二編を読む。此日改元。」