夜になると寒い

 本日はお天気がよろしで日中の最高気温は14度まであがったとの

ことです。この時間もたぶん6度くらいはあるのでしょう、なんとか暖房

をつかわずに過ごしています。それでも着込んで、ひざかけをすれば

なんとか過ごすことができそうです。4月も半ば過ぎですからね。

 一週間ほど留守にしていたことから、新聞とか録画したTV番組とか

目を通さなくてはいけないものがたくさんありまして、これを消化するに

はずいぶんと時間がかかりそうです。

 ぱらぱらと新聞をみていて、まずは目についた記事についてです。

それは朝日新聞夕刊にありです。新聞夕刊というのは、いずれ姿を消す

のではないかと思われますが(朝刊、夕刊の夕刊で、夕刊紙のことでは

ありません。)、4月からは紙面をリニューアルして、ほとんど文化記事ば

かりで紙面を埋めている時もありです。そうしたリニューアルで登場した

のが「編集者をつくった本」というもので、これはどのくらいの頻度で掲

載となるのでしょう。

 当方が目にしたのは4月17日の夕刊で、この時に登場の編集者さん

は作品社の増子信一さんでした。

 ちなみに増子さんがあげている本は「復興期の精神」花田清輝さん

であります。

「私が大学に入った1970年代の初めは『埴谷万年、吉本千年』という

言葉がまだ生きていて、埴谷『幻視のなかの政治』、吉本『共同幻想

論』がもて囃されていた。そんな時代にたまたま花田清輝の『復興期の

精神』を手にした。・・・・戦時下で書かれたとは思えない知の煌めきを

感じた。」

 検索をかけましたら、増子さんは1953年生まれとありますので、当方

より二年くらい下でありましょうか。当方が大学に入ったのは70年であり

ましたので、時代の雰囲気はほぼ同じでしょう。

「当時の学生たちの花田の評価といえば、花田・吉本論争でコテンパン

にやられたオールド左翼、花田を読んでいるというと白眼視されること

必至。」

 当方は増子さんとはちがって、花田さんの本を読み漁ることはなかっ

たのですが、埴谷、吉本には近づくことなく、「復興期の精神」とか「東洋

的回帰」などを購入して読んでいたものです。

 増子さんは花田さんのおかげで「一挙に読書の範囲が広がり、尾崎

翠、秋元松代小沢信男、広末保という名前を知る」と記していますが、

これはよくわかりますね。当方は、小沢信男さんを知ったのは、花田清輝

さん経由ではありませんが、花田から小沢さんというルートは王道です。

 さらに注目は次のくだり。

「花田が亡くなったのは1974年9月23日、葬儀の日、東京文京区の

白山上の花田家まで出かけた。無論、遠目で観ていただけだが、花田が

敬愛していた批評家・林達夫ハイヤーから降りる姿も目にもした。

帰路、白山の坂を織りていると、下から哲学者の久野収さんが坂をゆっ

くり上ってくる。すれ違いざま久野収さんは『ご苦労さん』というように

笑顔で軽く会釈してくれた。」

 この時の久野さんの笑顔が、増子さんを編集の世界への扉であったと

結んでいます。

 花田清輝久野収のお二人は平凡社からでた「林達夫著作集」の編

者として名前があがっている方でありまして、久野収林達夫がなければ、

当方はどうなっていたろうかと思いますとき、増子さんの文章が、ほんと

よくわかるわかるとうなずくのでありました。

復興期の精神 (講談社文芸文庫)

復興期の精神 (講談社文芸文庫)