長谷川さんの葉書 2

 山田稔さんの「天野さんの傘」にはいっている「長谷川さんの葉書」に触発され、
当方の手元に残っている長谷川四郎さんからいただいた葉書を見ております。
 ちょうど山田さんに届いた葉書と、当方が長谷川さんからいただいた葉書の時期
が重なるものですから、当方も「ミミズの這った跡のような」葉書をもらっては
いないだろうかと思って見たのですが、住所も含め、すべて判読できるものであり
ました。
 山田さんの文章の一節から引用です。
「私が『ミミズの這った跡』と記憶していたのは、あるいはこのローマ字のサイン
だったのかもしれない。だが、一方でなお、たしかに判読不能の葉書(ヨコ書きの)
を目にしたという思いも打ち消しがたいのだった。あれは、やはり紛失したのか。
それとも、どこか思いもよらぬ場所に眠っているのか。」
( 長谷川四郎さんのローマ字サインは、いぜんに紹介したことがありましたが、
次のものとなります。)

 もちろん、山田さんは記憶を話題にしているのでありまして、事実を問題にして
いるのではありません。しかし「判読不能の葉書(ヨコ書き)」というところに、
リアリティがありです。
 長谷川四郎さんは、山田さんの文中で紹介されている葉書にもありますように、
79年には身体が不自由になって、福島紀幸さんによりますと、執筆は口述筆記と
なっていたとのことです。
 山田稔さんのところにある葉書で最後のものは79年8月3日消印で「筆跡はまだ
しっかりしていた」とありました。
 当方が長谷川四郎さんからいただいた葉書の最後のものは、80年1月11日消印の
もので、これには小沢信男さんがいうところの「ご機嫌印のサイン」がありまし
た。
 当方がお葉書をいただくにいたったのは、当方が勝手にハスカップジャムとか、
アスパラを送ったりしまして、それへの礼状ということになります。しかしこの
礼状はどこの馬の骨かわからぬ若輩(当時20代後半)に対してのものであるのに、
たいへん心のこもったお葉書であって、これが一層のこと当方を長谷川四郎ファン
としたのであります。
 80年1月以降も、当方は何度か季節のものを送ったりしたのですが、これからに
あっては、お返事は奥様からいただくことになりました。
 このへんをあれこれ思いめぐらせば、山田稔さんがご覧になったという「判読
不能の葉書」というのは、80年12月に刊行された「九つの物語」をおくられた山田
さんが、長谷川四郎さんへ送った礼状への返信であったのかなと思うことです。
80年1月までの葉書は当方も確認しており、判読には問題がありませんが、それから
どんどんと悪くなっていったように思います。たぶん、年末には文字を書くのも
たいへんな状態であったでしょう。
 翌81年からは入院生活をおくることになったとあります。入院してからは文字は
書くことができなかったと思われます。