日本が仕掛けた戦争が敗戦という形で終わってから70年であります。
この国に住む大半の人は戦争を経験しないという国になりました。これは大変めで
たいことでありますが、一方には戦争のない社会に退屈を感じている人々がいるのか
もしれません。戦争というのは、特需を生み出すものでありますからね。
朝鮮戦争やベトナム戦争のときは、仕事が多くて忙しく、儲かったよなというような
話があるのでしょう。人がたいへんな思いで戦争しているときに、高見の見物で、
それで儲けやがってと面とむかっていわれたら、さてなんとこたえましょうぞ。
先日に亡父の書棚を整理していましたら、その昔に住んでいた開拓地のリーダーさ
んの回顧録がでてきました。
1902(明治35)年生まれの方で、1940(昭和15)年に満州の開拓のためにわたり、
命からがら日本に戻ったのは1946(昭和21)年10月のことだそうです。
回顧録は1976(昭和51)年に発表されたもので、その時74歳でありました。
満州の奥地にあって、どのように敗戦を知ったかを、この回顧録から引用です。
「いよいよ八月十五日が来た。ついに来るべき日が来たのである。県公暑まで、
実験場から三里ほどの距離であるが、鉄路を利用する。いつもは県公暑に勤務する
高官の友人の自宅にある無線で戦況情報を聞いたのだったが、この日は他団長と
共に県公暑で、陛下の重大発表を聞いたのである。
ご詔勅のお声はよく聞こえなかったのであるが、敗戦は判った。」
開拓団の団長であったこの方は、地元に戻って団員に対して終戦の発表をすること
になります。そうしたあとに、団長の胸に去来した思いです。
「私等は今となっては敗戦国民である。関東軍を頼りに、日頃巾をきかせて日の丸を
背景に日本人風を吹かせてきたが、今日で終わりである。・・
日本軍は中国の侵略者で、私等もその一人だから犯罪者である。住んでいれる処で
なく、殺されても文句は言えず、裁きを待つ外ない。何十年も中国人を虐げて来た
罪は重い、まさに生死の境に追い込まれたのである。・・
恐ろしいのは日本の権力行政だった。この行きすぎの権力統治こそ反省されるべき
と、深く肝に銘じた。武力による他国侵略が、結果としてその報復を甘受しなければ
ならなかったが、このために又幾百万という国民を、あたら優秀な人材を犠牲にした
ことになり、残念でならない。それらの人柱に対し衷心冥福を祈るばかりであった。」
満州へと戦争にいったわけではなく、農地開拓のために渡ったリーダーさんの回顧
であります。