最近の読書から 6

 当方が満州と聞いて思い浮かべるのは、いまから50年ほど前の札幌近郊開拓地の風景
と人々のくらしであります。風景は満州とはまったく違うのでありますが、開拓地での
暮らしというのは、どこもたいへんなことでありました。
 長谷川濬さんなど「満州浪漫」の同人たちは、いずれも「建国と共に国都新京に集って
きた若き知識人たちである。即ち、やがて建国の基礎が固まると、いずれも政府や新聞社
や映画会社などの第一線に立って活躍していた連中」ですから、彼らの満州は開拓地から
遠いものであったでしょう。
 尾崎秀樹さんの「近代文学の傷痕」に収録の「満州国における文学の種々相」には、
満州浪漫」掲載の長谷川濬さん「建国文学私論」からの引用がありました。この文章は
昭和15年に発表でありますので、当時34歳くらいのようです。
 尾崎さんの本からの孫引きとなります。
「建国思想が日本の歴史とそれの動向に伴い新興民族意識の触発するところにおいてこの
満州国にいかなる形を作って現存するかを検討し、元来存在し、あるいは生活し来った
風土、および民族との接触によっていかなる独自的形態として新生活が躍動しているか、
この過程のなかに実在する新精神を母胎とする文学の発生を僕は建国文学と称し、満州
文学精神の基礎的理念とする。」
 この引用に続いて尾崎さんは、次のように記しています。
「日本人であると同時に満州国人であると自覚する彼は、日満両民族の精神的連帯の上に
ユートピアの偉大な夢を描く。」
 佐渡から函館にわたった長谷川家には、土地に縛られて生きるという意識はなかった
ようであります。戦前に北海道で育った道産子たちが本州のことを内地というのとも
ちょっと違いますね。
 長谷川濬さんの文章の孫引きを続けます。
「かって僕は満州文学は世界文学なりと主張した。この主張は終始一貫かわらない。
また曰く満州建国は世界的建設であると・・・。この両者の言は共に相通ずる大道であ
る。
満州文学と満州建国は共にあり、共に呼吸するアジア的世界精神でなけらばならない。
天心のいうアジアは一つ これは新興満州国文学を志向する予言であろう。」
 尾崎さんが引用している文章をみますと長谷川濬さんが、若手の文化リーダーの一人
であったことがわかります。そうでなくして、どうして甘粕の側近となることができ
ようかです。