本に書く人書かぬ人

 本を書く人ではなく、本に書く人であります。
「ちくま」7月号で豊崎由美さんが「同志よ!」と声をかけたくなるというタイプの
人たちです。
 当方は、これまで本を読んでノートにメモを取ることはあっても、本に傍線を引い
たり、メモを書き込むということはやっておりませんでした。これがどうしてである
のかと思いますが、これはもし本を古本屋へと売却するとしたら、書き込みなどが
あると売ることができなくなるか、売ることができても、うんと値段が安くなるから
と聞かされていたからでしょう。
 最近のように古本屋さんの売却したとしても、ほとんど値段がつかないのでありま
したら、書き込みをしたとしても、あまり不都合は生じないのかもしれません。
今頃になって、そのようなことがわかっても、もう遅いか。
 豊崎さんの「ちくま」7月号の文章の冒頭には、次のようにありです。
「わたしの知り合いに、新刊本しか買わず、本を全開するなんて言語道断、10センチ
ほど開いた隙間から覗き込むように読み、線を引いたり書き込みをしたり、ページの
端を折ったりするなんておそらくそういうタイプは少数派であって、ほとんどの読者
は多かれ少なかれ本には何らかの読んだ跡を残してしまうからだ。」
 「そういうタイプは少数派であって」とありますが、ここまできますと、これは
読書家の極北に位置する原理主義者さんのような存在でありまして、極めて稀な存在
でありましょう。
「ほとんどの読者は何らかの読んだ跡を残す」ということになると、当方もそれに
類したことをしているでありましょう。一番は本にしおりがわりに何かをはさみこむ
ことでありましょう。旅行にいっている時に携行した文庫本でありましたら、食事の
ときの箸袋がしおりがわりに挟み込みそうであります。
 豊崎さんが本に残す痕跡については、文章の終わりのところでふれています。
「わたしの場合、線を引いたり付箋を貼ったり、気づいたことを書き込んだり、人物
対照表を加えたりするのは当たり前。こみいった構成のメガノベルに関しては、後で
書評を書く時に困らないよう細かい字で作品全体の見取り図を記したレポート用紙を
挟んだりと、カスタマイズしまくりなので、ここに出てくる本には『同志よ!』と
声をかけたくなるのだ。」
 その昔、井上ひさしさんが辞書に書き込みをすることで、自分だけの辞書を作る
というようなことを書いていたのを思いだしました。
豊崎さんが記しているのは、これまた半世紀ほども昔であれば「知的生産の技術」と
でもいわれる手法であります。
 いまさらではありますが、当方も見習わなくてはです。