「山口昌男ラビリンス」の冒頭におかれた山口さんと今福さんの対談で、昨日に引用
したところに続いて、今福さんが山口さんに重ねて紹介するのは、チャトウィンの
死後に刊行された本「Anatomy of Restlessness」に収録のエッセイとなります。
(この「Anatomy of Restlessness」の邦訳はでていません。)
エッセイは「Gone to Timbuctoo」というタイトルになります。対談で今福さんが山口
さんに語っている内容は、整理されて「追悼シンポジウム」での発言となっています。
これの引用は「追悼シンポジウム」のほうから行います。
「キャラバンの中継地だったアフリカ・マリ共和国の古都ティンブクトゥは、ヨーロッ
パのイメージだと蜃気楼のかなたに浮かぶ古い王都という感じで、非常に幻想化されて
いた町でした。そのために、いつの間にか英語では”Gone to Timbuctoo”という表現
が、まさにティンブクトゥの蜃気楼のかなたに消えていったということで、『正気を
失った、家族を捨てて消えた、失踪した』という意味になったのです。
チャトウィンはこの文章の中で、自分自身もまたティンブクトゥに行くことに取り
憑かれてしまった一人のノマディックな人間であるということを語ろうとしたのです
が、山口昌男にとってのアフリカという問題を究極的に考えていったときに、この
”Gone to Timbuctoo”という表現は、常に示唆的なのではないかと私は思っています。
山口さんのフィールドであるアフリカは、実体と幻影・神話の混合体として、それ自体
『どこにもない場所』、すなわちある種の可能性のヴィジョンの中で揺れている場所
=イデアだったのではないか。それは現実ではなく、現実以上の何か、希求すべき何か
であった。・・・・
そう考えれば、山口昌男という人も結局は、”He has gone to Timbuctoo"というこ
とができるのではないか。」
このことは2001年1月に札幌大学展示スペース学長室で行った対談で語っていること
となりますが、そのときは、「完全に行ってしまっては、まだ困りますが」と本人に
いっていますが、亡くなってからであらば、上のようにいうことが可能となったので
ありましょう。