正義の味方か

 朝日新聞に限らずでありますが、報道の取材というのは常に自分は正しいというよう
な自信に支えられて行われるように思います。
取材されるほうに落ち度でもあろうものなら、ほらみたかと鬼の首でもとったかのごと
くに記事にされるのが普通であります。政治家も官僚も企業の経営者も、こうした取材
する側の姿勢に、かちんとこないわけがなく、すきあらばいつかこうした取材側をへこ
ましてやろうと思っていると思って間違いなしです。
 取材される側に猛省をうながすというのであれば、取材する側に問題があれば反省と
謝罪をして当然でありまして、それでやっと取材する側とされる側は対等になるといえ
るでしょう。
 特にマスコミといわれるような大会社は、社員を多く抱えていて、そのなかには
とんでも社員などもいるでしょうから、そうした人たちの言動、または報道記事を
きちんとチェックするというのは、組織として当然のことです。
 新聞にのっている記事が無色透明なわけがなく、それをどのように読んでいくのか
は、読み手にかかっているのですが、単純な死亡記事以外は、批判的に読むことが
必要でありましょう。それは朝日新聞に限らず、その対極にあるといわれる新聞におい
ても同じであります。

「ぼくは先に『社会の木鐸』をもって任じているはずの『朝日新聞』が、そのネームを
「しんぶん」と立未扁に書いていることに注意をうながしておきました。この奇怪さは
ただ朝日だけにとどまらず、実は『毎日新聞』もその一味徒党であることは知る人ぞ
知るであります。この、事ごとに相競い相争い相反しようとしている二大新聞がこの
ことだけには仲良く共同戦線をはっているのはまことに天下の奇観です。・・
 朝に夕べに読まされているわが愛する新聞の冒頭に、たといどんな折り目正しい
由緒があるにしても、こんな妙な字が鎮座ましましているのでは、下世話に言う
『百日の説法屁一つ』みたいなもので、時にはあんまり威張った口を利きなさんなと
いいたくなることもあるというものです。」
 上に引用したのは、林達夫さんの「新聞について」1953年9月号文藝春秋に掲載の
文章であります。
 当時の朝日新聞が「当用漢字、新体漢字、現代かなづかいを率先して採用し、その
普及と確立に大童」となり、「旧かなづかいに固執」の作家等の文章は、現代かなづ
かいにしなくては紙面掲載をしなかったということがあって、かかれたものでありま
す。
 やっていることと言っていることに違いありは、別に昨日今日にはじまったことで
はありません。