「海鳴り」26号 2

 編集工房ノアのご主人が紹介するノアゆかりで亡くなったもうひと方についてで
あります。その方は、枡谷優さんといってノアから五冊の小説集と詩集をだしてい
ます。なるほど「海鳴り」の巻末にある刊行目録には、「丙丁童子」「吉野川
「鳶」「北大阪線」の四冊が掲載されていました。
 アマゾンでは、以下の一冊の表紙写真がありました。

吉野川

吉野川

 ノア主人が紹介する枡谷さんのプロフィールは、次のようになります。
「枡谷さんは、1925年(大正14)、奈良県吉野生まれ。大阪福島の質屋で小僧として
働いた時代を題材にした『北大阪線』で第一回小島輝正賞を受賞。
軍隊は大阪での通信兵、復員後は吉野で山仕事に従事、その後、船場の繊維商社に
勤務。独立して主に中近東、北アフリカのフランス語圏の国々相手の貿易業をした。
フランス語は独学。靴のひもを作る機械を輸出しているとも聞いた。」
 独学のフランス語で、北アフリカのフランス語圏を相手に貿易をしたというのに
驚きました。戦後の高度成長を支えた大阪人のバイタリティを感じることであり
ます。
 この方がノアから刊行していたのは2002年から2008年までの時期でありました。
亡くなった時は88歳となっていたのですから、ノアとの付き合いが密であったの
は、70代の半ばくらいであったのでしょうか。
「毎日、水泳をし、中津のノアへは天王寺区細工谷の家から自転車(ママチャリ)
で四、五十分かけて来て、また帰るのだった。」
 ママチャリでどこまでもいきそうな方であります。そのために運動をしているの
かもしれません。この二月に亡くなった八尾の友人も、梅田くらいまでは自転車で
いくよといってました。彼は不摂生でありましたので、そうした無理がたたって、
まだこれからという年で亡くなったのですが、ちょっと職人気質の関西人という
ところに枡谷さんのプロフィールに重なるものを感じました。
 天王寺区細工谷からでありますか、先日に大阪へといっていたときに、天王寺区
図書館を訪ね、そのあたりをうろうろとしているとき、桃谷にむかっての下り坂
あたりに細工谷という町名を見つけて、このあたりは職人さんたちが多く住んで
いたのだろうかと思いました。

 細工谷を桃谷にむかって歩いていたときに見かけた風景であります。横に伸び
た小路が、古い石の階段でつながっているのですが、こうした古い階段が珍しく
て、思わず写してしまいました。当方にとって、細工谷といえば、この階段であ
りますか。
「枡谷優さんの葬儀は、・・・大阪上六に近い、地域の集会所のような小さな
会館。所属した同人誌『文学雑誌』もやめていたこともあり、文学関係者は誰も
来ていなかった。親族、知人、三十人ほどの葬儀だった。」
 かっての文芸関係者に亡くなったことは伝わったのかどうかでありますが、
文学関係者は誰も来なくとも、ノア主人はちゃんと葬儀に参列する。ノアという
出版社は、こういうご主人がやっているのであります。