写真編集者 2

 山岸章二さんのことを検索していて、参考となったページがあったので、ここ
にリンクをはろうと思っていましたら、検索ではあがってくるのですが、リンクが
うまくはれずとなりました。もとのページはなくなっていて、検索にはヒットする
ということになっているようです。
 参考となったページがあったのは、次のアドレスであります。
趣味の自分史【SLIGHTLY OUT OF FOCUS / ちょっとピンぼけ】
 http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/index.htm
 かんじんの山岸章二さんについてのページには、ここからたどりつくには、すこし
迷ってしまいそうです。
 山岸章二さんが「カメラ毎日」の編集長をして雑誌作りをして時代をリアルタイム
で読者として接していた方が、先のページに次のように記していました。
深津さんという方の「カメラの蝕感」というページですが、無断で引用をさせて
いただきます。

「高校生の頃から、アサヒカメラとカメラ毎日の両方を見ていたが、1960年代
前半の編集方針は似たりよったりで、どちらかと言えば、商業的に成功している
アサヒカメラをカメラ毎日が追っかけていた感じである。それが1970年前後から、
カメラ毎日は、積極的に若手の作品を掲載し始めた。
1968年6月号は「現代の写真」特集で、若い写真家たちに共通する日常への
まなざしを「コンポラ写真」として提示し、70年代の写真表現を決定付けた。
その年、高梨、多木、中平らによって「PROVOKE」が発足している。このような旧来
の(ようするにアサヒカメラ的な)写真に対する挑戦的な編集を行ったのが、
山岸章二であった。( 中略 )
 山岸の写真を見る目、写真家を見出す目は業界でも高く評価されていた。
しかし、写真より文章の方が過激になっていき、写真はどんどんブレ・ボケ・
ザラザラになっていく。写真が1枚では表現できず、何枚かの羅列によって、
執拗なほのめかしが何かに見えてくるのだが、このような写真は、アマチュア
写真愛好家が1枚でマネしようもないもので、読者が減っていく。広告のページも
減っていく。
 その後、1980年頃になって、写真は社会に対する影響力をまったく失って
いくのだが、アサヒカメラは、その読者を写真よりカメラの方に目を向けさせる
ことに成功して、現在まで生き長らえている。一方、カメラ毎日は、山岸の死後、
再びアサヒカメラを追随したが、結局1985年5月号で廃刊されてしまう。」
 これを記された方は、1947年生まれとありますので、団塊の世代でありまして、
高校のころからカメラ雑誌を見ていたというのですから、ねんきがはいっています。
上に引用させていただいたのは、とてもわかりやすくまとまっているからであり
まして、このような見取り図というのがありますと、山岸さんや西井さんという
写真編集者のおかれた状況が理解しやすいことです。