仕事帰りに 5

 かってはこのようなパトロンがいたのだなと思いながら、木下順二さんが描くところ
の「大倉喜七郎」さんのくだりを見ています。大倉さんは、大倉財閥の御曹司でありま
して、いろいろな分野で相当な支援をしたようであります。
 木下さんの芝居の世界では、木下さんの同志である山本安英さんの支援をしていた
ようです。木下さんは、以下のように記しています。
「四七年のことだったと思うが、大倉さんは、御自分がオウナーである有楽町のレスト
ラン”レバンテ”の二階に、山本安英さんのために”現代演劇研究所”という一室を
設けてくれた。・・・
 あの敗戦直後の頃に、青年文化会議や”未来”グループなどと同じように”専門を
超える連帯”を唱えていた西谷能雄と、あの”現代演劇研究所”の一室で初めて会った
ということは、一種象徴的なことだったという気が私はする。何が象徴的かというと、
その部屋で大倉さんが、それまでわれわれ新劇人といわば関係のなかった歌舞伎俳優
諸氏との集まりを(つまり”専門を超える連帯”の可能性を含む集まりを)開いてくれ
たのである。その集まりが持たれたのはほんの二、三回で、・・大倉さんの思いつきだ
といってしまえばそれまでだが、そういう思いつきを大倉さんにさせたのは、やはり
あの”戦後”、前にいった文化における”専門を超える連帯”という発想を生んだあの
”戦後”という時代であったと私は思う。」
 この時に大倉さんが声をかけてあつめた人たちとは、歌舞伎や邦楽、新劇の人であり
ました。
松緑梅幸勘三郎、あと二、三人歌舞伎の人がいたと思う。それに西川鯉三郎
宮川栄寿郎、新劇からは岡倉士朗、薄田研二、滝沢修、田村秋子、山本安英、もっと
いたかと思う。」
 歌舞伎のメンバーは「松緑梅幸勘三郎」の面々でありまして、これはいずれも
昭和の名優といわれた方々です。この時代は、まだ若手でありましたから、これから
の時代を担う役者の教育であったのでしょう。
 この舞台となった”レバンテ”というのは、当方はいったことがないのであります
が、有楽町の有名なお店で、いまは別な場所に移って現在も営業が続いています。
古い店の雰囲気は、次のところで目にすることができました。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/9734/levante.html