小樽にゆかりの 5

 瀧口修造さんの自筆年譜から佐藤朔さんがいうところの「行方不明」のくだりを引用
です。
「 1923(大正12)年 二十一歳 
 4月、慶應義塾大学文学部予科に入り、三田四国町の下宿屋に住む。三田文科に多少
抱いていた期待は裏切られ、教室よりも図書館にこもり、ブレイクなどを原書ではじめて
読み耽る。同期に佐藤朔、田中千禾夫藤浦洸、樋口勝彦などがいた。四国町の下宿で
大震災にあう。・・・塾に集まってくる罹災者の世話をする。当時、株券となっていた
学資金が無に帰す。すでに学校に失望していた矢先、それを理由に叔父の説得をしりぞ
けて退学届けを出し、姉の強いすすめもあったので、十二月雪深い北海道小樽に渡る。
 極度の放蕩のため追放同様に渡道していた義兄の家に寄宿。
当時、小間物問屋のセールスマンをしていた義兄は店の裏のバラック同様の家に住む
落ち目の生活であった。山中の分教場のようなところで代用教員をして子供たちを相手
に一生をおくる決意をしていたが、ついにそのような職にありつけず、べんべんと寄食
生活をつづける。」
 先に小樽に渡っていたのは、一番上の姉夫婦であったのですが、この姉は、瀧口少年
にとっての理想の女性ともいわれています。瀧口さんが十一歳の時に、「富山史の酒商
家島家の二男恒次郎に嫁す。その輿入れは定紋入りの高張提灯、たんす長持の行列がな
らび、少年の心にうつくしくもの悲しいロマンとして映る。おそらく父が無理したわが
家の最後の華やかさであった。」とあり、続いて「この姉は勝気で、美しかった。絵も
よくした。」と自慢げに書いています。
 瀧口さんは十三歳で父を亡くし、二十歳で母を亡くしたわけですが、このあとは、
この姉が家長役であったようです。
 たぶん、二男とはいえ、それなりの商家に嫁いだのですから、ここまで落魄すると
いうのは、どのくらいの放蕩をしたことなのでありましょう。
結婚した時の様子からすると、落ちぶれて違った世界の人となってしまったように思え
ることです。

「1924(大正13)年 二十二歳
 この年の秋か暮れに次姉 かをる、夫、小川、急病死のため、子供を高田市の夫の
実家に残して、小樽の義兄の家をたより来道。翌年春離籍することになるが、ここで
姉と弟の三人の共同出資のかたりで花園女学校前に文房具兼手芸材料店を開く計画を
進め、将来のため大学に再入学するように姉に泣きつかれる。」
 この姉も「美しい姉 みさをさん」であります。 

「1925(大正15)年 二十三歳
 この年の初めに店を開き、商品の整理、店番などを手伝う。
 当時ようやく北見の農場に格好な仕事を見つけたが、結局、姉らの説得に従い、
不本意ながらも四月上京、慶應大学に戻る。かくして卒業までの最低の学費は小樽の
長姉より仕送りをうけることになる。」
 放蕩によって地元にいることができなくなった義兄が北海道にわたり、義兄ととも
に小樽で住んでいた姉に声をかけられて、小樽で寄宿し、やはり姉の説得で大学に
戻るまでの二年ほどであります。この期間における具体的な生活を裏付けるものは
ほとんどないのでありますが、この「花園女学校前の文房具店」の写真とか、この
店の孫にあたる人などの証言を得ることができたとのことであります。
 そのままでいきましたら、瀧口さんは、ずっと北海道で暮らすことになったのかも
しれずでありまして、親代わりとなった長姉の力でありますこと。
なんとなく「安寿と厨子王」のような話であります。