レコードのある部屋 4

 著者の三浦淳史さんはイギリス音楽が専門とあります。どなたがお書きになったもの
であるか、ウィキペディアの「三浦淳史」の項は、詳細な記述となっています。
 イギリスのクラシック作曲家といっても、当方が名前を知るのはほとんどなく、学校
で曲がとりあげられたことで、ブリテンの名前をやっと記憶にとどめているくらいです。
「レコードのある部屋」には、「ベンジャミン・ブリテンへの弔花」という文章がある
ほか、別なところでも取り上げられている箇所があるのですが、このブリテンさんは、
1913年生まれとありますので、三浦さんと同年の生まれとなります。亡くなったのは
1976年ですので、この本が刊行となる3年ほど前のことです。
 ブリテンというの作曲家についての興味深い逸話が紹介されています。
ベンジャミン・ブリテンが、親友のテノール歌手ピーター・ビアーズと連れたって、
東南アジアの旅行の途次、NHKの招きで日本に立ち寄ったのは、1956(昭和31)年の
二月のことだった。彼らは二月八日PAAで羽田に着き、二週間わが国に滞在した。
正式の演奏旅行ではなかったので、一般の公開演奏は行わず九日と十八日の二回にわけ
て放送が行われた。」
 十八日の放送というのは、夜の八時から一時間NHKテレビでのものですが、この時
代でありますので、もちろん生中継となりますね。この時代の放送は、フィルムにとっ
ていれば残っているでしょうが、そうでないとすると、ほとんど映像は残っていないこと
になります。この時のブリテンの指揮というのは、はたして映像として保存されているで
しょうか。
「十八日はNHKテレビで、ブリテンN響を指揮し、自作を三曲演奏した。
シンフォニア・ダ・レクイエム』作品20で始まり、次いでビアーズの独唱によって
イリュミナシオン』作品18、さいごに『バーゼルの主題による変奏曲とフーガ』作品
34でしめられた。
シンフォニア・ダ・レクイエム』は『イリュミナシオン』とともに、日本初演だった
が、この曲はわが国との間にいわく因縁のあった作品である。
1940年、時の政府は『皇紀二千六百年』奉祝のため、外交機関を通じて、独仏伊英
ハンガリーの五カ国に、奉祝楽曲を依頼したのだった。・・・
イギリスの外交機関を通して依嘱を受けたベンジャミン・ブリテンは、なんたることか、
死者を追悼する鎮魂曲を送りつけてきたのである。軍国時代の役人が激怒して、これを
おくらにしたのはいうまでもないが、何も”軍国時代”でなくとも、また皇紀二千六百年
のナンセンスはべつとしても、奉祝曲に死者のためのミサ曲の管弦楽曲版を送りつけて
きたら、気をわるくしない者はまずいないだろう。」
 皇紀二千六百年といいますと幻の東京オリンピックでありますね。これを記念して国威
発揚でオリンピックの東京開催が決まっていたのですが、これは戦時下となったことに
より中止となったといういわくのものです。
 そういう時代背景ではありますが、それにしても「鎮魂曲」を送るとは確信犯でなく
てはできないことです。