中村とうようさん追悼 8

 つまるところ「ボブ・ディランの変身」体験というのは、多くの日本人にとっては、
中村とうようさんが受けたショック体験の伝播であったと思うわけです。
今となっては、ディランがエレキギターをもってステージにあがるというのに、なんの
違和感もないのですが、これは、今から50年ほど前には考えることができないことで
あったわけです。( 日本の民謡界であっても、男性が紋付きを着用して演奏を披露す
るような格式ある舞台は、アンプラグドが原則でありまして、このようなところで、
たとえば伊藤多喜雄さんとそのバンドが共演なんて考えにくいはずです。)
 この「ディランの変身」のことを、中村とうようさんは「フォーク・ソングをあな
たに」に収録されている「フォーク・ロックへの道」で、次のように書いています。
「 一九六五年アメリカ・フォーク界での最大事件はボブ・ディランの”変身”であろ
う。ボブ・ディランといえば『風に吹かれて』をはじめとして戦争反対、人種差別反対
を高らかに歌いあげる”正義の味方”として多くの信者をもっていた男だ。それが、
一九六五年のニューポート・フォーク・フェスティバルには、エレキギターを抱えて
登場したのだ。『ニューポートに集まった群衆たちは彼がやったエレキの曲に対して口々
に非難の声を挙げた。そして次に起こったことこそ、私が今までに見たこともないほど
劇的なものであった。ディランがステージを下りてしまったのである。聴衆はなおも
ブーブーと叫び<エレキギターなんか追っ払>えとわめいた。ピーター・ヤーローが
うまく話でつないで拍子させ、またディランをステージに戻るよう説得しようとしたが、
いずれも失敗に帰した。いろいろともめたあげく、ようやくディランは再びあらわれた
が、その目には涙がうかんでいた。そして、”イッツ・オール・オーバー・ナウ、
ベビー・ブルー”を歌ったが、それはニューポートに対する別れの言葉あると私は感じ
た。ディランをも聴衆をも深い悲しみがおおい、聴衆は彼が今度はエレキを弾かなかっ
たということに対してようやく拍手を送った。』
 これは十一月号の『シング・アウト」誌に寄せられたレポートである。たしかに
ニューポートの聴衆たちは”ニューディラン”に背をむけた。つまりニューポートの
出場者を代表するふたり ピート・シーガーとディランのうち、聴衆は、いつでも
正義の味方の立場を堅持するピート・シーガーのほうを選んだのだ。しかし同誌に
出た記事はむしろニュー・ディラン擁護論のほうに力がこもっていた。」
 ここまで引用したのは、ディランの変身についてのレポートですが、このあとは、
ディランを擁護する雑誌記者の文章を紹介し、ピート・シーガーの立ち位置を紹介
します。
 ピート・シーガーは、「花はどこへいった」という曲の作者として有名であります
が、一時期のUSAでは好ましくない人物として「非米活動委員会」にも喚問されて
います。最近、文庫化された津野海太郎さんの「ジェローム・ロビンスが死んだ」
小学館文庫にも登場します。たとえば、次のようにです。
バール・アイヴスは四十年代にバンジョーをかかえた放浪ミュージシャンとして
売り出し、その後、映画俳優に転じる。非米活動委員会には協力的証人として登場し、
ピート・シーガーらの歌手仲間を共産主義者として摘発する役目を演じた。」)
フォークソングをあなたに」ではピート・シーガーのことを紹介しています。
「民謡に対する理解の深さと人間的良心から、若いフォーク・ミュージシャン、愛好
家の間で、神様のようにうやまわれている、白人フォーク・シンガーの一等星。
一九一九年、ニューヨーク市の生まれ。民謡研究家アラン・ロマックスンに弟子いり
して、助手をつとめたのが、この世界に入った第一歩だった。三八年、ハーヴァード
大学を中退して、民謡探索の旅に出、ウッディ・ガスリーと知り合い、そのガスリー
らと、四〇年代の初めに”オールマナック・シンガース”を結成した。
四八年〜五八年は、ウィーヴァースに在籍し、以後はソロ・シンガーとして活躍して
いるが、その間、民謡リバイバルに尽くした功績は大きい。民謡研究家としても一流
である。また社会意識の大変強い人だ。六三年十月に来日。」(高山宏之さんに
よる紹介文)
 ついでに、バール・アイヴスの紹介文もありますので、これも記しておきましょう。
(こちらは和田誠司さんによるもの)
「一九〇九年、南イリノイ州ジェスパー・カウンティに誕生。アメリカが生んだ偉大
な詩人であり、民謡歌手。カール・サンドバーグが彼を指して、”アメリカ最大の
バラッド歌手”と賛美している。アイブスこそアメリカ民謡界の重鎮といえる人物
だ。また映画の方面でも『大いなる西部』「熱いトタン屋根の猫』に出演して名演技
を披露した。」
 バール・アイブスは、非米活動委員会での発言のあと、アカデミー賞を受けるので
ありますが、アメリカの保守派が一番強かった時代のことであります。